我々は 働く事によって 糧を得 生存しています。
何の為に働くのか? と聞かれて どう答えればいいのでしょう。
働く。仕事をする。職業に従事する。とはどういうことなのでしょう。
心身が健康で 文化的な生活を送る事と 働くと言う事に対する概念は とりもなおさず私たちの人生そのものに大きく関わっています。
一般的には どのように働くのかということは どのような人生を送りたいのかということと 同義でもあるはずです。
心の持ちようと 行動の具体化は 比例するものでもあります。
今日から始める 職能資格要件書というこのカテゴリーは 他のカテゴリーの こころ に対し 働くという行動に際しての 私なりの覚書を 書いていこうと思います。
約束の一年まで ねたが無くなったからではありません。
ちなみに 働く とは 人間が動く と書きます。 仕事。稼ぎ。職業。に従事していることだけが働く事ではなく 人は誰でも何かしらの働きを担っている。 という立場です。
・・・・・・・・・。
その1.
あやまる。ということ。
人は働く事によって 何を得るか。
もちろん食うこと。食えば存在する。存在すれば無視できない存在になる。その存在がどうあるべきか。を思い知りながら成長する。
つまり 時間を経るのです。この時間を経る過程をどう考えどう過ごすのかという問題が起こります。
経験と能力。キャリアアップとスキルアップをどのように図るのかという問題に直面します。
ここに あやまり が入り込むケースが多いようです。
本物の能力と呼べるようなものがあるとすれば それは あやまり を回避するスキルではなく 出会ってしまった あやまり を認め対処する スキル だと思います。
自分にとって どのような分野での学習が必要か?どのような実体験を要する事で思惑にそう能力が身につくと思われるのか?
という問いかけが必要とされる能力であります。
あやまり にあやまれる人は あやまりを 無為に あやまらない。
ということでしょう。
成長する職能資格の原点であろうかと思われます。
大事なのはバランス感覚。常識感覚。
決断中枢の出どこのこと。この感覚が壊れていると、他者への理解・説明ができないし、自己表現も相手に勘違いされる。
この感覚を上げるためには、2極の相対する観念を広げなければいけない。
一メートルのものさしの平衡をとるには 50センチが支点になるが ものさしの端が80センチまでしか見えていない人は40センチでバランスをとろうとする。
あやまる ことになる。
片方しか知らないと、偏執的になる。 自らの あやまり が見出せないのです。
情報の教養化と意識ある経験が平衡感覚を磨く研磨剤になるでしょう。
もし。わたしが あやまっていたら あやまります。
それでは 御免!
職能資格要件書。
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