本物には、金剛界と胎蔵界の曼陀羅がある。
真言密教の芸術作品である。
その教えが何を意味するのか、不明の部分も数多いと聞く。
のうまくさんまんだらにやううん・・・・・。
確かこのようなでだしで真言は始る。
幼少の頃訳もなにもわからないまま、追従していた覚えがある。
確かにあの頃頭の中には、まんだらが出没していたような幻想を持っている。
複製の曼荼羅が家の仏壇におわしゃったせいかも知れない。
やがて成長を重ねるにつれ、現実思想が生活を取り巻き、いつのまにか霊的であるはずの純真なる原初の体験が忘れ去られた。
しかしだ。
全てが消滅してはいなかったようだ。
不惑の年齢を過ぎた頃からしばしば、このルーツのかけらが姿を見せ始めた。
それは、奇しくも人の助けを借りないと生きていけない状況を感知し始めた頃と前後する。
また、近きものとの死別や自らの不調といった「胎蔵界」といえなくもない出来事と、生きる為に行うことの意味や、競争に打ち勝つ為の知恵といった「金剛界」といえなくもない環境に対して、その折り合いをつける作業が発生した頃からであろうと思う。
まんだら。の感性は多分に小生に影を落としているのだろう。
想うに。
描かれた曼陀羅というより、描くというその行為そのものに「まんだら」が現出するのではないかという思いはこの頃一層強い。
それは筆を取る、砂を撒くという作画的な営みに限らず、時空間に環境や人の存在が配置されるのは何故か?小生が抱えている「今」とはなにゆえか?という問に至りし折に、まんだら模様が頭をよぎる。
存在と思想と行為が、まんだら組成への磁場となっているようについ考えてしまう。
その時。自己は曼陀羅の源泉。いわゆる画で言う「如来」の位置に否応無く座っている。若しくはそこに居ざるを得ない。
ひとそれぞれにまんだら。
互いに円運動を繰り返しながら作用反作用を起こす。
その生成・形成のメカニズムはカオスながらも、求心への意志を持つ渦のように見えるのである。
この存在と思想と行為は。
クラインの壷や、メビウスの輪のように、胎蔵界と金剛界を行き来している自己の軌跡の、残像まんだらと思えてならないのである。
曼陀羅の原風景が小生に与えた影響は、あるいは最も色濃く残る源思想なのかもしれない。。
◎のうまくさんまんだらにやううん・・・・・。
~せんだまかろしゃた
そはたやうんたらたかんまん
ひょっとして、先生のお宅も真言宗でしょうか?
そうでしたら、さらに嬉しいご縁です
もっとも、嫁いで来ました現在の我が家は
『浄土真宗 東本願寺 高田派』ですが。。。
◎描かれた曼陀羅というより、描くという
その行為そのものに・・・
と、自分をそこまで高めることは、わたくしには
まだまだ程遠いものですが、
先生の日々のお話を拝読しておりますと、徐々に
自分が高められていく気が致します。
先生が薄墨で画かれました
曼荼羅 に
ただ・・ただ・・頭が下がります
有り難うございました
合掌
拙い技量ながら雑多なものに興味を持つのもそんな地で採れたせいかもしれませぬ。