エリック・ホッファーさんはいいました。
「他人を進んで許そうとするからこそ、自分を許す事もできるのかもしれない。不満をなだめなければ、良心の咎めを感じることもできなくなってしまうのだ。」
ホッファーさんは教徒でもなんでもありません。教育を一度も受けた事もなく湾岸労働者の立場のまま哲学人になった人物です。
知ろうと思えば。既に回りは答えを用意しているのではありませんか?
この言葉は、物事を智として取り入れる出発点であると考えます。
もしも。なにかの停滞やわだかまりを改善しようと思うのであるなら、「一緒」の考えから発するのが近道であろうと思います。
つまり。同類だと思っていること。相違だと思っていること。の改善です。
許そうとすることは、偏見を無くす事につながります。
自分を許す事は可能性につながります。
良心の咎めとは、まぎれもない真実への邪魔者です。
不満が、自らの魅力を縛ってしまうようです。
どんな境遇であろうと、爆発する才能を持ち合わせているのは人間一緒であります。
境遇とのミスフィットを改善できるのは、その個人でしかありえません。
要は「一緒」のパワーを思うか、思わないかの差にあるように想えます。
ホッファーさんの「智」の成り立ちに、そんなことを考えます。
「智」とはなにも物事を知っているだけで出来上がるものでもないでしょう。
「智」とは、他人を許す着眼であったり。自己を許す瞠目であったり。良心の咎めに反応したり。不満の出処を察知したり。内部探査装置としても機能するのです。
人体に備え付けられた装置は一緒。
誰でもすごい一物を持っている。
小さいけど長い。とか。
短いけど太い。とか。
・・一緒。一緒。
大事にしたいものであります。
先生は、わたくしのように一日おきに透析に
通う者たちに、「誰もが皆、プラスマイナス=0」
だと教えてくださいました。
自己分析をして、そんなに卑屈にならない豊かな
精神を持つことを学びました。
本当に有難うございます。