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卓越性は、それを発揮する人物と密接かつ見事に結びついている。
一人ひとりの卓越性は、唯一無二の形でその人の個性を表現する。つまり我々一人ひとりが卓越性を持つことは容易であり、そこには我々の一番すぐれた部分が自然に、柔軟に、知的な形で発現する。
卓越性を伸ばすことはできるが、強制することはできない。また、卓越の反対は失敗ではない。しかし人は実質的にすべての試みについて、卓越の反対は失敗だという前提に立ち、病理学的機能の仕組みを研究して失敗の反対を行えば、あるいは足りないとわかったものを補えば、最適な機能を生み出すことができると考えている。この前提には欠陥がある。
病気について研究すれば、その病気のことはわかるだろうが、健康についてはほとんど学べない。憂鬱を取り除いても、喜びには近づかない。幸せな結婚と言う話題について、離婚の話は意味がない。辞める社員に退職時面接をしても、他の社員が会社に残る理由はわからない。失敗を研究すれば、失敗についてはよくわかるだろうが、卓越性の実現方法については何もわからない。卓越性にはそれ自体のパターンがあるのだ。
失敗に注目することの問題点はそれだけではない。卓越性と失敗にはしばしば多くの共通点がある。そのため、たとえば無能なリーダーについて調査し、彼らの自我が強すぎることがわかったからといって、よいリーダーは自我が強すぎてはならないと主張すれば、人々を駄目にしてしまうだろう。なぜだろうか。それは、非常に有能なリーダー性格診断をしてみると、彼らもまた非常に強い自我を持つからだ。よいリーダーになるためには自我をなくせというのは、欠陥のあるアドバイスである。実際には、有能なリーダーは自我を自分の為ではなく相手へのサービスの為に発揮している。
ここで重要なのは、成果の出ないパフォーマンスをいくら調べても、こうした発見にはたどり着かないということだ。
求められることの大半はあらかじめ決められた手順に沿ったものではなく、ついでに言えば、他者の欠陥を暴く能力でもない。人々が唯一無二の才能を全体の利益のために役立てた時にこそ、全体の利益は発展し続ける。
我々人間は、意図のよくわからない相手から、自分の現状や、「真の」素晴らしさ、改善のためにしなければならないことを指摘されても、よい働きはできない。卓越性を伸ばせる唯一の機会は、自分の事をよく知り気にかけてくれる相手から、その人が体験したことや感じたことを教えてもらった時、特に我々の中で本当に有効な何かが発揮された瞬間を見つけて教えてもらった時なのである。
解決策は既に個人の中にある。あくまでも、相手がそれに気付くように手助けするだけである。その際、WHY(なぜ)に力点を置くべきではない。それはあなたと相手の両方を、憶測と概念の曖昧な世界に迷い込ませる原因になる。そうではなく、WHAT(なに)にフォーカスすることだ。
-切抜/d.h.b.r.2019.october より
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