煩悩を除いてしまって、外に真如は無い。迷いを取ってしまって、外に悟りはない。
夜を除いてしまったら、昼というものも無くなる。暑いというものを取ってしまって寒いということは無い。汚いものを取ってしまえば、綺麗なものは無い。綺麗というものがあるから、汚いというものがわかる。夜というものがあるから昼がわかる。長いというものがあるから短いということがわかる。硬いというものがあるから柔らかいというものがわかる。
人々は真如といえばこれを望み、煩悩といえばこれを嫌う。これは普通の考えであって、やはり真如は良いもので、煩悩は悪いものであるに相違ない。しかしわが禅の上においては煩悩そのままが真如であるというのである。
煩悩を除かずして、ただちに真如の悟りを手に入れるようにしなければならぬ。煩悩は悪いものであるから、これを除いて望むところの真如を手に入れようとしても、それは無駄骨になってしまう。煩悩を除こうとするのは、あたかも病の上にまた病を増すに等しいものである。
時々わしの寺へ訪ねてきて、「自分は精神修養をしたいと思います。それには座禅が一番良いと思ってやっておりますが、どうも平生妄想が多く、次から次へと妄分別ばかり出て、どうしてもとることができません。これを除かないうちは、悟ることができませんか?」と言ってくるものがある。
それでわしは、「それならお前ひとつ歩いてみたらどうじゃ、歩いたら影ができるに相違ない。その影をひっとらえようと思って、いかに走っても、お前が走れば走るほど、影も従って走る。お前が払えば払うほど、影が大騒ぎを演ずる。煩悩が嫌じゃと思ったらそっとしておくがよい、そうすると影も動かぬ。煩悩を取ろう、妄想を払おうと思うなら、まず煩悩と一所に煩悩の内に入り、妄想と一所に妄想の中に入り、苦しければ苦しいものと一所になってしまいなさい。いやしくも苦しみを除こうとは思わずに、苦しみの中に徹底して這入るのでなければ、本当の安楽はできないのである。それを離れて他に取ろう、それを除いて別に持って来ようということは、労して効なき話である」と言う。
この説明を聞いて大抵の人はわかるかわからぬか知らぬが、とにかく頭を下げて帰って行くのである。
ー切抜/菅原時保「禅窓閑話」より
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