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剣術の奥義にしても、政治をやる上においても、戦をやる上においても、何人も最も大切に心得ておくべきは、自我、個我などと言われているところのものを捨ててかからねばならぬことである。
自我というものがあると、生死ということから離れられない。自我観念のいけないのは、自分の心が二つになるからである。この「我」を超越した何物かを捉えなければならぬ。
ただ「我」を捨てよとか、無くせよなどと言っただけでは何もならぬ。自我を無くするには、自我よりももう一つ大きいものを見つけなければならぬ。
人間は元来消極的には何もできないもので、積極的に何か肯定したものを持っていなくては、働きが出てこないのである。
人間は元来、否定に死んで肯定に生きるのである。
生死を捨てるということだけではいけないので、生死より大きなものの上に生きることを体認しなければならぬ。自分らは何れも大肯定に生きるということでなくてはならぬ。
否定は促進性を持たぬ。どうしても肯定的でなくてはならぬ。絶大なる肯定、この大肯定というものにぶつからねばならぬ。
この大肯定は人によって、いろいろな形をとることでもあろう。また一つの集団内でも、階級によっても相違をみることであろうと思う。しかしながら、本当の大肯定ということになると、これは各自の心を掘り下げ、掘り下げて、もうこれ以上掘り下げることのできないところを、今一つ掘り下げることによって初めて得られるところのものである。
この如き大肯定は、その原理においてどこまでも同じものでなくてはならぬ。
ー切抜/鈴木大拙「一真実の世界」より
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