南無煩悩大菩薩

今日是好日也

真と実と。ーLIVING

2020-05-05 | つれづれの風景。
(gif/source)

ある婦人は、ふとパンと一緒にピンを呑み込んだと思うと、その喉に耐えがたい痛みを感じて呻き苦しんだ。そこにピンがまだひっかかっているような気がしたのである。

けれども外から見たところ腫れてもいなければ何の別状もないものだから、ある気のきいた男が、これはきっと呑み込む時にパンのかけらか何かが喉にひっかかったのを、ピンを呑んだかのように思いこんでいるに違いないと判断し、まず吐かせておいてから、手早くそこにねじまげたピンを投げ込んだ。

婦人は、「それ出た!」と言われると、たちまちに痛みの消えるのを感じた。


例えば、風は吹いている。がしかし風そのものにおとがあるわけではない。がしかし風のおととして聞く。ー音について

例えば、いくらいろいろな野菜のながまじっていても、全体はサラダというなの中に含まれる。ー名前について。

例えば、ガスにはにおいが無い、がしかしそれでは漏れて察知できず危険なのでにおいを附けている。ー匂いについて。


自ラノ真実ヲ真実トスルコト、金ヲ金トシ悲シムコト、吹ク風ノオノレソヨギ、薔薇ト野菜ノムキムキニ咲キ、鳥ノ飛ビ、魚ノ泳ギ、虫ノ匍フコト、男ヲンナノツツマシク連レ添フコト、ミナアハレナリ、シンジツニ。ミナアハレナリ。 ー北原白秋「真実」

Jan Gunnar Hoff - LIVING
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どう想う?

2020-05-03 | つれづれの風景。
(photo/source)

私はこの推移を経験しつつ整理してみる必要があると思っている。それを想ってみる次第である。

落胆や不安、恐怖と言った類ではどうもなさそうで、ありていにいえば、私が今想うには「驚き」に近い感情である。

中原中也は小詩論のなかでこんな表現をした。

「生きることは老の皺を呼ぶことになると同一の理で、想うことは想うこととしての皺を作す。想うことを想うことは出来ないが想ったことで出来た皺については想うことが出来る」。

「しかるにこの皺は決して意識的に招かるべきものではない。よりよく生きようという心掛けだけが我等人間の願いとして容れられる」。

そしてこんな風にも描いている。

「実際、人は驚けばその驚きが何であるかと知りたいのは当然過ぎる程のことで、だからといってその驚きはその時努力して何だと分る筈のものではない。けれども努力しておおよそ何だとくらい分らないものでもない。それで大抵の人がそのおよその何かを探すのだ」。

私は想っても想いだせるはずのないことを想ってみる。たとえば、我々地球上の生物はすべて38億年という歴史を体の中に持っているということなど。
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どうするとどうしない、と。

2020-05-01 | 世界の写窓から
(quote/Marcus Aurelius Antoninus)

例えば、なにを話すかは知性に関するものであり、なにを話さないかは品性に関するものであったりする。

Rock Me Amadeus (Falco) - AMADEUS Electric Quartet
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