◆3月4日
出エジプト31:2-3。聖所の諸々の用具を作るため、主はユダ部族のフルの子であるウリの子ベツァルエルを名ざして召し、任務を果たすのに必要な英知と知識に富ませ、神の霊を満たした。 御用のための各道具を作るのさえ、神は名指して任命。私達の役割もそのように与えられているのだな。
◆3月11日
新改訳出エジプト36:2「モーセは…主が知恵を授けられた、心に知恵のある者すべて…感動して、進み出てその仕事をしたいと思う者すべてを、呼び寄せた」。NIVは〈the Lord had given ability and who was willing to come and do the work〉と、志願する心も主が起こされたのを明記
◆3月14日
ルカ8:18。御言葉をどう聞くかイエスは注意を促し「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」 と仰る。〈持っている〉ものが何か和訳はどれも漠然としているが、NLTはunderstandingと記す。琴線に触れた聖句が取り去られぬよう心したい
◆3月14日
ルカ9章。福音を宣べ伝え病人を癒して帰ってきた弟子達を伴い、イエスはベツサイダに退いたが、群衆がついて来てしまった。恐らく休養を取るためだった筈なのに、「イエスは喜んで彼ら(群衆)を迎え」た(新改訳ルカ9:11)とある。私達の主は、とことん与え尽くす神。
◆3月17日
レビ5:21-24「…預り物、共同出資品、盗品を着服…し…罪を犯すならば、彼はその責めを負い、その盗品…紛失物…すべて返さねばならない…おのおのの場合につき五分の一を追加する」が神の賠償基準。騙し取った物を4倍にして返すと言ったザアカイがいかにラディカルだったか(ルカ19:8)
◆3月22日
ルカ12:24「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる」。列王記上17章で主はエリヤに、ケリト川畔へ行けば烏に養わせると約束。労働せぬ烏に頼るのは不安だった筈。同時に、稼げぬ私も誰かに役立つのかもと励まされた
◆3月28日
ルカ18:9。正しい人間だと自惚れるファリサイ人をNLTはwho had great confidence in their own righteousness(己の義に自信を持つ)と。FEBCの3/23放送の番組『交わりのことば』で、中島善子牧師は〈自分が立派な信仰者なのを感謝〉と表現。自己肯定感の低い私は黙想で前日の事柄を振り返って感謝し、是としてきたが、これは単に自己弁護の癖に過ぎなかったのか?
出エジプト31:2-3。聖所の諸々の用具を作るため、主はユダ部族のフルの子であるウリの子ベツァルエルを名ざして召し、任務を果たすのに必要な英知と知識に富ませ、神の霊を満たした。 御用のための各道具を作るのさえ、神は名指して任命。私達の役割もそのように与えられているのだな。
◆3月11日
新改訳出エジプト36:2「モーセは…主が知恵を授けられた、心に知恵のある者すべて…感動して、進み出てその仕事をしたいと思う者すべてを、呼び寄せた」。NIVは〈the Lord had given ability and who was willing to come and do the work〉と、志願する心も主が起こされたのを明記
◆3月14日
ルカ8:18。御言葉をどう聞くかイエスは注意を促し「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」 と仰る。〈持っている〉ものが何か和訳はどれも漠然としているが、NLTはunderstandingと記す。琴線に触れた聖句が取り去られぬよう心したい
◆3月14日
ルカ9章。福音を宣べ伝え病人を癒して帰ってきた弟子達を伴い、イエスはベツサイダに退いたが、群衆がついて来てしまった。恐らく休養を取るためだった筈なのに、「イエスは喜んで彼ら(群衆)を迎え」た(新改訳ルカ9:11)とある。私達の主は、とことん与え尽くす神。
◆3月17日
レビ5:21-24「…預り物、共同出資品、盗品を着服…し…罪を犯すならば、彼はその責めを負い、その盗品…紛失物…すべて返さねばならない…おのおのの場合につき五分の一を追加する」が神の賠償基準。騙し取った物を4倍にして返すと言ったザアカイがいかにラディカルだったか(ルカ19:8)
◆3月22日
ルカ12:24「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる」。列王記上17章で主はエリヤに、ケリト川畔へ行けば烏に養わせると約束。労働せぬ烏に頼るのは不安だった筈。同時に、稼げぬ私も誰かに役立つのかもと励まされた
◆3月28日
ルカ18:9。正しい人間だと自惚れるファリサイ人をNLTはwho had great confidence in their own righteousness(己の義に自信を持つ)と。FEBCの3/23放送の番組『交わりのことば』で、中島善子牧師は〈自分が立派な信仰者なのを感謝〉と表現。自己肯定感の低い私は黙想で前日の事柄を振り返って感謝し、是としてきたが、これは単に自己弁護の癖に過ぎなかったのか?
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