水の門

体内をながれるもの。ことば。音楽。飲みもの。スピリット。

一首鑑賞(65):吉野昌夫「かぎりなく汝を愛すといふ言葉」

2019年04月01日 10時28分36秒 | 一首鑑賞
かぎりなく汝を愛すといふ言葉ある夜素直にわが妻は受く
吉野昌夫『遠き人近き人』


 歌集には下記の歌も見出せる。

  誰が読むと言ふにもあらずぼろぼろの聖書がありて埃つみたり
  妹にせがみて教会につきゆきし幼な子がアイスクリームを下げて帰り来る


 してみると、聖書や教会は吉野にとってわりあい身近な存在だったはずである。
 掲出歌の上の句は、端的にはエレミヤ書31章3節であろう。口語訳では「主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに 真実をつくしてきた」とある。バビロンに捕囚として引かれて行った民の生き残りに、神が呼びかける言葉である。困窮の中、神の愛に満ちた聖句の数々に吉野の妻は折々慰められてきたに違いない。それらが「ある夜」真のものとして上述聖句に収斂されたのだろう。

  単純なる仕事繰り返す勤めなれど通ひ始めてより夜ごとよく眠るなり
  食ひぶちにも足らざるわれの俸給が喜びとなる母に渡りて


 「俸給」は国家公務員に支払われる給料のことで、吉野は農林省に勤めていたらしい。それでも糊口を凌ぐような暮らしぶりが歌から滲む。

  たのまれものの縫ひものなして妻が得しそのいくらかをわれも喜ぶ
  あやまるやうな前置をしてわれに見せるおなかのこどもに買つて置いた毛糸


 ルカによる福音書12章24節に「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる」という聖句がある。そう聞いて〈それは極論。人間は働かなきゃ食って行けないよ?〉という感想を持つかもしれない。しかし御言葉の現実味を傍証するため、卑近ながら私の経験を書く。
 2001年の発病まで、私は東京で身も心も削るようにして働いてきた。お蔭で、療養のために山梨へ移住後もしばらくは暮らしていけたが、年々預金残高は減っていった。N教会に転入会したのは、そんな2007年のクリスマス礼拝の日。現住陪餐会員になるに当たって牧師先生に二回ほど学びの時間を取っていただき、献金について説明も受けた。月定献金として何人の教会員がいくら納めているかという一覧表を見せられ、「特に縛りはありません」と言われたものの、最低額の場合でも月1000円は納めていることに目を瞠った。当時の私は無収入。信仰が試されたが、神の国と神の義を第一にという聖句(マタイによる福音書6章33節)に勇気を振り絞り、「神様、守って下さい!」と必死な気持ちで1000円の月定献金を決めた。次年度より精神障害者のための作業所に通うようになったが、時給は100円程度。工賃が月額5000円に届かない時もあり、月定献金のハードルは依然高かった。生命保険料や国民年金保険料、インターネットのプロバイダ料金は容赦なく銀行口座から差し引かれていくわけだから、徐々に生活が汲々としてきた。作業所に通い始めて二年目の後半は、自分の本来の口座の残額は限りなく0に近く、当時は100円に満たない小銭が財布に残った時でも、逐一自分の口座に預け入れする状況だった。今は亡き父の食道癌が発見されたのはそんな矢先。入院に際し父は勝手に私の名を保証人欄に書き印鑑を捺していた。私は内心「神様、助けて!」と叫んだ。でも、神様の御手は私を包んで下さっていた。その翌日に私の障害者手帳の二級を認める通知が届き、私の医療費は以降全て免除されるようになった。また翌春、精神障害者の社会適応訓練という制度による半就労が決まり、時給を1000円も貰えるようになった。一年後、障害年金も支給が認められた——。
 吉野の妻もまた、逼迫した生活の中でも生きながらえている不思議を思い、自分達を守る神の臨在を感じ取ったのだろう。
 前掲のルカによる福音書12章24節は、過日の聖書通読で深い学びができた箇所だ。同様の記述がマタイによる福音書6章26節にもあるが、こちらは「烏」ではなく「鳥」である。私は改めて「」である意味に思いを馳せ、はたと列王記上17章の記述を思い出した。主は預言者エリヤに「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしはに命じて、そこであなたを養わせる」(3〜4節)と仰った。数年の間、露も降りず雨も降らないであろうと神のお告げがあってすぐのことだ。エリヤに不安がなかったと言ったら嘘になろう。聖句にあるように烏は種も蒔かず刈り入れもしないのだから。だがエリヤは御言葉に従い、ケリト川畔へ赴いた。すると数羽の烏が、朝にパンと肉を、夕べにパンと肉を運んで来た(6節)という。
 荒唐無稽すぎる、とあなたは思うだろうか。けれど、自力で食い扶持を稼いでいるとはおよそ言い難い私が生かされ、教会において幾らかの役割を与えられているのを見れば、聖書が現実離れした奇跡を並べ立てている珍奇な書物とは言えない気がする。エリヤという預言者にも養ってくれる烏が必要だったし、自ら稼げぬ烏もエリヤを養うよう任じられたのだから。

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