不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「大阪『帰国者の友』からの便り」 2013年5月11日(土) No.646

2013-05-11 19:41:44 | 中国帰国者
大阪市淀川区十三にあるロマネハウスで
4月29日に開かれた「帰国者の友」交流会。

3月前半の2週間、江西財経大学に交流生として短期留学した
石田キコさんの「南昌滞在報告」もされたとのことで、
どんな雰囲気だっただろうと気になっていた。

今日、キコさんのお母さんの石田華恵さん(帰国者二世)から
会の様子を知らせるメールが届いたので、ここで早速ご紹介。

横山三郎さんという帰国者一世の方が出演した関西テレビ制作の
ドキュメンタリーもみんなで観たとのこと。
関西テレビでは、何年も前から帰国者問題をテーマにした番組を作り続けている。
2009年4月放送の「ザ・ドキュメント父の国 母の国―ある残留孤児の66年」は
何かの賞を得た。強烈な印象が残っている。
横山さんの番組をネットで探したが、残念ながら見られなかった。
誰か知っていたら教えてね~。

――ここから石田華恵さんのメール文――

先生、今晩は。
GWが終わりました。
やっと落ち着きました。

4月29日に横山さんのDVDを見て、みんな感動して涙を流していました。
私の父親もこのような経歴があったので、私は涙が止まらなかったです。
キコはノートパソコンで写真を見せながら、40分ぐらい報告をしました。
西井澄さん(帰国者一世:註ブルーはーと)が「帰国者たちはたくさん苦労をしましたが、
今日、キコと原田さんの息子さんのような若者たちが参加してくれて、嬉しい」
と言っていました。
古賀さんの息子さんも大学時代に中国に2週間の留学したが、
こんなに素晴らしい報告はなかったと言っていました。
またキコは江青英さんの作文も紹介しました。
私は「希望もある」のところにすごく心を打たれました。
日中関係が悪化しつつあっても、
日中両国の若者たちの友好交流は止まることがないと思っています。
だから、日中関係の未来にはまだ希望があると思います。

今回、キコがみなさんに報告できたのも
先生と帰国者の友のみなさんのお陰です。
帰国者の友のみなさん、
お忙しい中、ロマネハウスに集まって頂きありがとうございました。

また8月に先生が帰ってくるのを楽しみにしております。
(*^◯^*)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「新聞記者の仕事」 2013年2月22日(金)No.570

2013-02-22 22:07:04 | 中国帰国者
今日は端っから宣伝になるが、
この間2月11日に「帰国者の友」新年会をしたときのことが
新聞に載った。
読売新聞2月17日関西版である。
読みづらいのは、帰国者の友のメンバーがPDFで送ってくれたのを
そのままこのgooブログの画像フォルダに保存する術がなく(=わからなく)、
実にアナログ的手法で再現したからなんだす。ヽ(;▽;)ノ
で、でも、名前の「ぶるーはーとさん」が可愛いでしょ?



実は、今日一番書きたいのは、読売新聞に載ったということそのものではない。
読売新聞社と言えば、原発推進の中心をになっているメディアの一つだ。
私はつねづね、読売新聞の記事内容にはなんの期待もしていないというより、
(また変なこと書いてるんとちゃうんか?)と、無料のYOMIURI ONLINEを読むときでも
疑い深く、険しい表情になる方である。
産経と並んで絶対買いたくない新聞だ。

その読売新聞の記者(石塚さん;友人の知り合い)が取材に来て、記事を書いてくれた。
「帰国者の友」新年会の自己紹介で、石塚さんは、
率直に自社の(反動的な←これはブルーはーとの言葉)政治傾向に触れ、
それでも記者として出来る限りを尽すといった挨拶をされた。
『ムーミンパパ』と早速誰かが命名したが、ゆったりと、そして謙虚な人柄だった。
こう言う人も、あのひどい新聞社で記事を書いているのだ。
ただ、書いた記事が採用されるかどうかは、
デスクあるいはその上の判断にかかっている。
石塚さんの場合、ボツになった原稿と採用された原稿を天秤量りで測ったら
片一方にひっくり返ることは容易に想像がつく。

読売新聞2月21日夕刊に彼は、
カソリックの司教さんのインタビューを載せるということだった。
その司教さんはインタビューで、
南京大虐殺などの日本軍の非道な行いについて、
「やったことはやったときちんと反省するところからしか始まらない」
と発言されているそうだ。
その記事は、その言葉は、ちゃんと掲載されただろうか。

石塚さんのような記者が読売新聞社でずっと踏ん張っていることを、
私は切り捨ててきた。
そのことを申し訳なく思う。
これからも読売は買わない。
ただし、石塚さんが書いた記事が載るなら買ってもいいと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「李さん夫婦―ある中国帰国者の人生」 2013年1月28日(月) No.555

2013-01-28 19:03:07 | 中国帰国者
帰国者2世李(渡辺)達夫さん(70歳)とお連れ合いの遅素媛さんのお宅にお見舞いに行った。
もう一年半前のことになるが、遅素媛さんが北京の旅館で階段最上階から落ちて生死をさまよう大けがをした。過労死で亡くなった愛娘の葬式に参列し、悲しみの帰宅途中での二重の悲劇だった。
純粋ボランティア任意団体である「帰国者の友」メンバーは、
持てる力の全てを繋いで何とか帰国―入院の手筈を整えた。
ど素人ばかりの団体だ。NPO法人ですらない。
しかし、フル回転して頑張り、また他の団体・個人の力を大いに借りて、
人生のどん底状態の李さん・素媛さんご夫婦を何とかサポートできたことは、
「庶民だってやればできる」という証拠だと自負している。
(当時の状況については2011年8月9日、20日、22日、28日、30日のブログをご覧ください)

中国から帰省するたびに見舞いに行くのだが、
昨夏、お邪魔したときに比べて
昨日の李達夫さんの表情は柔らかかった。
毎朝6時に起きて、妻である素媛さんのために朝食と薬を用意し、
リハビリ、昼食、薬、昼寝、リハビリ、夕食という介護の一日を過ごす。
これを一年半続けている。
この事故の前までは、
達夫さんが梅田の日本語教室から自転車で帰ってくるのを
素媛さんは市営住宅団地のベランダから今か今かと待つ日々だった。
餃子を包み、お湯を沸かし、李達夫さんがドアを開けると、
ちょうど茹で上がったホカホカの水餃子で出迎えるのだった。
素媛さんは日本語学習を早々と諦めて、
終日部屋で絵を描き、言葉の分からない日本での生活を過ごしていた。

60歳まで吉林省で働き、
その後お母さんの故国への移住を決意した李達夫さんとともに人生を紡ぐ者として、
日本海を越えて大阪にやって来た素媛さん。
彼女は当時、吉林市で絵を描く仕事に従事していた。
決して生活に困っていたわけではない。
素媛さんは李達夫さんが文化大革命で12年間農村の強制労働に従事していたとき、共通の友人に伝え聞いて面会に来た。
それが二人の初めての出会いだった。
「彼は姿形が見目麗しく、心も美しい人でした。」
素媛さんは元気だったころ、帰国者の友パーティーでのろけたことがある。
何歳になっても自分の連れ合いを衆人に対して堂々と褒めちぎるのが中国式だ。
もちろん嘘はない。
素媛さんは「日本人と結婚するなどとんでもない!」
と猛反対する家族の反対を押し切って李達夫さんの妻となった。

今、素媛さんは、
「このおじさん(李達夫さんのこと)が、お菓子を食べたらだめだと言うの。」
としょんぼりする。
事故後、日本での入院、退院、自宅療養の中で、
彼女の体重は50㎏から65㎏に膨れ上がってしまったので、
李さんはダイエットに踏み切った。
それが恨めしいのだ。
今、彼女にとって李達夫さんは「世話をしてくれる好いおじさん」だという。
脳挫傷等の後遺症で記憶も戻らず、童女のような素媛さん。
しかし李さんはそんなことは意に介さない。
自分に人生を捧げてくれた素媛さんの恩を今返す時だと微笑む。
こんなふうに思うまで、李さんはどれほど涙を流したことだろう。

帰り道、一緒に行った「帰国者の友」メンバーと、
「李さん夫婦を始め、帰国者の多くがこれからさらに、
言葉の壁・年齢の壁に苦しむことだろう。
そうした事態に備え、『帰国者の友』のNPO法人化がやはり必要だ」
という話になった。
ぼちぼち、腰をあげなアカン。
身が二つ欲しい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「織姫&彦星生活…帰国者の雅子さん」  2012年8月13日(月) No.412

2012-08-13 16:45:47 | 中国帰国者
昨日、雅子さんとお連れ合いのお宅にお招きされて行ってきた。



めちゃ仲良しご夫婦の二人だが、
これほど嬉しそうなのにはわけがある。

彼女の故郷は吉林省長春。
「大地の子」の舞台にもなった。
中国人の連れ合いと結婚したが、
残留孤児のお父さん夫婦が日本に帰国して1年後の1999年に、
夫、4歳の娘とともに日本にやってきた。

他の帰国者同様、彼らもまた言葉の壁、習慣の壁、社会システムの違いに苦しみ続けた。
中国のご両親の介護のため、連れ合いは7年間の日本暮らしの後、
長春に引き上げた。
雅子さんも二度と日本には戻らないつもりで、
夫と行動をともにした。
上の娘、日本で生まれた1歳の下の娘を連れて。
しかし、上の娘が日本に帰りたいと訴え続けるので、
しかたなく雅子さんは娘たちと大阪に戻ってきた。
今から5年前のことだ。

それ以来、
夫は長春、妻と2人の娘は大阪と、家族は引き裂かれてしまった。
QQで夫とチャットなどしても、現実の子育てや生活のやりくりは
全て雅子さんの肩にかかった。
日本で生まれ育った人でも、一人で2人の子育てと仕事探し、
生活の切り盛り全部をやれと言われたら、どれほどのことができるだろうか…。
当時、言葉だけではなく、
日本の社会や習慣に馴染んだとは決して言えない雅子さんは、
たった一人、孤立無援で子どもを守り、
日々の生活と闘うしかなかった。

ちょうどその頃、
私は近畿帰国者支援センターで週末だけ
日本語クラスを受け持っていた。
そのクラスに通っていたのが雅子さんで、
真面目で成績もいいが、
いつもどこか悲しそうで暗いムードを漂わせていた。
一人で中学生の上の娘と3歳の下の娘を育てながら、
ヘルパー1級試験に合格し、パソコンも勉強しているという彼女は、
ある日の休み時間、半分病気のように喋って喋って、私やクラスメイトに
窮状を訴えたことがある。
実は半分病気どころか、その頃の彼女は本当に病気だったそうだ。
せっかく得たヘルパーの職も、その病気のせいで止めざるを得なかった。

上の子の高校受験でも、日本のシステムが分からず、
どれほど困ったことだろう。
その頃、夜何度か電話がかかってきた。
途方に暮れて泣いている彼女からだった。

この写真の笑顔を彼女が取り戻したのは、
彼女自身が持つ、人一倍強い根性と、
そしてやはり、頼りがいのある連れ合いの存在によるものだ。
今、二人は七夕の織姫と彦星のように、
年に一、二度、数週間中国と日本を行ったり来たりしている。
いつかまた、ともに暮らせる日を夢見て…。


おまけと言ってはナンだけど、
お連れ合いの新作中華料理がまたむちゃ美味しい!
下の写真は「ゴーヤと豚ミンチの蒸し物」


これは「三鮮(卵・にら・あと何だった?)揚げ」巨大餃子のような形。
もちろん皮から作る。皮作りのコツ教えてもらったもんね~。


全部手作り料理のラインナップ
彼は中華料理店を経営する夢を持っている(できれば帰国者の仲間たちと)。
実現できたらいいな!













コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「人生を聞く・語る」  2012年7月25日(水) No.401

2012-07-25 23:14:11 | 中国帰国者
誰かの人生をじっくり聞く。
振り返ってみると、そんなことをあまりしていない。
「徹子の部屋」が面白いのは黒柳さんの話しぶりだけではなく、
むしろ、黒柳さんによって巧みに聞き出されたゲストの人生なのかな。

「徹子の部屋」は遠いテレビの向こうのことだけど、
身近にいる一人ひとりの人生だって、
とても波乱万丈で、
とても魅力に溢れていて、
とても共感できる。
よく今まで生き続けて来られたなあと、感嘆する。
有名でもなんでもない一人の人生も、そんな内容に満ちている。

人が人に生身の声で伝えることの力は
パソコンなんか太刀打ちできない、
というかパソコンには最初からできない。
パソコンには命がインプットされていないからだ。


おばあちゃんやおじいちゃんの話を
孫たちは耳にタコができるくらいきけたらいいのに。
お父さんお母さんの話をも
子どもたちは目を輝かせて聞けたらいいのに。

「時代が違うよ」
「ふる~!」
と言う人は、流行りでも追いかけているんだろうか。
聴く力(=想像力)の衰退だ。

今日は、西井澄さんの傍で、
西井澄さんの生の声で語られる人生話を聞きながら、
小さい西井さんの胸に
頭をスリスリしたくなって困った。
西井さんの話はいつも、
「生き続けられるだけ生きる」という言葉で締めくくられる。

「海辺のカフカ」でナカタさんは死に続けた。
私たちは、とりあえず、生き続けている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「私は中国残留の子どもだった」  2012年7月22日(日) No.399

2012-07-22 10:08:45 | 中国帰国者
7月25日(水)、淀川区十三のロマネハウス2階「帰国者の友」で
西井澄さんが自分の人生体験を語る。
6歳まで日本で生まれ育ったとは言え、
彼女にとって日本語は第二の言語、母語は中国語である。

日本語母語話者の聞き手は、
西井さんと体験を共にすることはできないにしても、
言葉の中に隠れている事実の重みや、意味を共に考えるという作業をしなければならないだろう。
「あの戦争は何のために、誰のためになったのか」
その問いへの答えは、聞き手に問いかけられているのだ。

《西井澄さんの作文より》
「私の故郷」
私が住んでいたのは、日本の西部に位置する小さな島、四国です。(中略)
私は高知県中村市川登という小さな村に6歳まで住んでいました。
川登と言えば、高知駅から特急に乗って1時間40分かかる辺鄙なところですが、
家の前には全国でも有名な四万十川が流れています。(中略)
小さいときに川で遊んだ思い出が浮かび上がってきます。(中略)
気候は、冬は寒くなく、夏もあまり暑くなく、空気は湿潤な住みやすいところです。
山にはイタズリ、蕗などいろいろな山菜があり、
かごを背負って山に山菜取りに行く人が多いです。
動物はイノシシ、サルぐらいでしょうか。
美しい四万十川が注目されていますのは、この川に鮎が多いので、
釣好きの若者、年寄、子どもたちが訪れるのです。
鮎を釣り、そのあとすぐに川の岸で塩焼きにして食べる姿が印象的でした。
でも今は、こういう楽しい風景がかすんで見えなくなってしまいました。

というのは、故郷を離れてもう67年以上だからです。
住んでいたのは6年間の短い年月でしたが、
懐かしさはますます心に深く刻まれ、決してかすむことはありません。
これから強く生きて、もう一度故郷のきれいな風景の中にすっぽりと包まれ、
自然の美しさを味わってみたいものです。
これは夢ですね。(2009年記)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「部落解放文学賞授賞式に参加した」  2012年7月21日(土) No.398

2012-07-21 20:33:48 | 中国帰国者
第38回目の解放文学賞授賞式に行ってきた。
「識字の部」佳作に選ばれた西井澄さんのお伴ということで
西井さんにとっても私にとっても初めての体験だ。

会場のホテル大阪ベイタワーというところも初めてで、
4階ホールに入るとき、西井さんは
「こういうところは靴を脱いでスリッパ履くんでしょう?」
とフワフワの絨毯を指さした。
私も一瞬(そんなホテルもあるのかな?)とソワソワしたが
「いや、靴のままで構いません。」
とベテランぶって余裕を見せた。

以前も書いたが、
選者がすごかった。
私の知っているだけでも、鎌田慧、今江よしとも、山下明生、金時鐘、岡真理といった人たちが
(言っとくけどみんなホンモノだよ!)
ずらりと選者席に座っている。
(スゲ~!)と思うと同時に、
そういう賞であるのだ、と改めてその重みを噛み締めた。

しかし、懇親会で選者の方々のコメントを聞いていると、
みんな、そんなに口がうまいわけでもない。
ただ深い感受性と洞察力を持って生きてきた人たちなんだ、と分かり
とても身近に思えた。
例えば、金時鐘さん。
彼のコメントは、言葉の裏を読み、すくい上げるという金さんの感性が伝わってきて、
同席できただけで(テーブルは隣だったけど)、光栄だった。
こんな機会を与えてくれた西井さんに感謝!
宴会場でもないので、ビール瓶もって挨拶回りするわけにもいかなかったが、
できればそうしたかったな。

で、ここからは頼まれてもいない解放文学賞の宣伝だ。
今の今まで私は勘違いしていた。
この文学賞に応募できるのは
識字学級に通っている人とか、帰国者、外国人、被差別者などに限るのだと。
今日の授賞式の「詩部門」では
牛皮染めの産業を主とする隣村の友人のことを書いた作品が入選作として紹介されていた。
いわゆる「被差別者」当人ではない。
この文学賞は差別とたたかう全ての人に門戸を開いているのだ。
もちろん北海道から沖縄まで、どこからでも応募できる。

第39回応募要項は次の通りなので、
このブログをお読みのみなさん!
ちょっとやってみませんか(いや、ホンマ)。

*部門*
・識字(識字活動を始め、読み書きを学んでいる人の作品。一人一篇)
・記録、表現(ノンフィクション、ルポルタージュ、生活史、自分史、聞き書き)
・詩(一人三篇以内)
・小説(400字詰原稿用紙150枚以内)
・児童文学(同上)
・戯曲(舞台上演台本、上演済みの台本も可)
・評論(差別の諸問題を中心に、人間―自然の諸関係をかえ、新たな時代を創造するための評論・論文。、民族、女性、障害者をはじめとするあらゆる差別に関するエッセイ、聞き書きなど。400字詰原稿用紙50枚前後。ちなみに今年度は応募作品なしだったそうな)

*選考委員*
鎌田慧、野村進、黒古一夫、梁石日、高良留美子、金時鐘、今江祥智、山下明生、木村光一、芳地隆介、鵜山仁、中尾健二(そう書いてあるが、この6月に急逝された。歴史博物館長として橋下市長の予算カットに頭を悩ませていた矢先のことだったそうだ)、岡真理

*応募締め切り日…10月31日

(詳しくはネットなどで調べてね~!)


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「帰国者と引揚者」  2012年7月13日(金) No.394

2012-07-13 21:32:56 | 中国帰国者
中国残留邦人は日本に帰ってきて、「中国帰国者」と呼ばれている。
(「帰国子女」ではないす
以前、帰国者を対象にした日本語のクラスで
私の両親が中国からの引揚者であることを話したとき、
帰国者の中から「引揚者は帰国者と同じですか」
と質問があった。
私は迂闊にもその時まで、二者の共通性や違いについてきちんと吟味したことがなかったので、
心中(おお!そう言われれば同じだ!でも違いは何?)と自問した。
その時はとっさに、
「帰国者も引揚者も同じです。日本に帰ってきた時期が違うだけです。」
と答えたが、では何年までを引揚者と呼ぶのか今も定かではない。
大阪大学の入試要項には今も「中国引揚者子女のための特別入試制度」という文言がある。
ということは、今も「引揚者」という言葉は生きているのだなあ。
しかし、一般的に「引揚者」は1945年以降、1950年代末までに日本に帰還した人たちを指していると
私は理解している。

母は生前、
中国から引揚げてきた時のことを語ったことがある。
1946年2月に山東省を出発するとき、近所の中国人が背中のリュックに麻花という揚げパンのような菓子を入れ、さらに餞別まで渡してくれて、
「平和になったらまた来いよ」
と言って手を振ってくれたこと。
天津から佐世保港に戻り、
その後引揚列車で北海道の地の果て知床まで戻ったときは
4年間の外地生活で雪の上の歩き方を忘れ、フワフワして頼りなかったこと。
しかし、生家の近くまでたどり着くと
体が勝手に走り出して、家の玄関まで一気に駆け込んだが、
「ただいま」
と言ったのに、声が小さくて誰も出てきてくれなかったことなど。
母や父にとって、
故国は紛れもなく日本だ。
引揚者であることで、後ろ指を指されたこともあるそうだが、
(人が苦労して帰ってきたのに、なぜこそこそ言われなければならないか!)
と、腹を立てながらも、生活を立て直すことに必死になって、
気が付けば戦後何十年も経っていた。
母は、亡くなる2週間前まで
「中国の人たちに餞別のお返しがしたいんだ」
と言っていた。

かたや帰国者の人たちにとって日本という国はどうなのだろう。
もちろん故国への帰還は多くの中国残留邦人の強い願いだった。
しかし、あまりにも長い年月を経ての帰国で、壁は厚く、高くそびえ立ってしまった。
「私たちは日本語が話せない日本人です」
と自嘲気味に語った帰国者もいた。
言葉だけではない。
中国と日本では、生活習慣も、自分を表現する方法も、
真逆のように異なることが多い。
「故国」というより「異国」と思う日があって当然だ。

私もアメリカでの1年間、中国での2年間の生活は、
日本での暮らしのように
なんでも自分でさっさとすることもできず、
人とのコミュニケーションも誤解と摩擦と勘違いの連続だった。
いつかは慣れると思わなければ、永住は難しいだろう。

西井澄さんが、
解放文学賞佳作に入賞し、
800字の「喜びの言葉」を書きながら、
誰にも推敲してくれるように頼めなかったことを聞いたとき、
私は最初(西井さん、なんて水くさい…。誰でもそれぐらいすぐにしてあげられるのに…)
と、かなりガッカリした。
「帰国者の友」が周りにいるのに、と。
しかし、西井さん自身ももちろん悔しいはずだ。
中国でなら、こんな残念なことにはならなかっただろう。
中国帰国者が日本で、自分の思うようにさっさと動き、
頼みごとができる友達を周囲でつくるには、
あと何年かかるのだろう。

帰国者と引揚者の決定的違いは、
単に帰国の時期だけのことではない。
時期の遅れが引き起こした、あまりにも多くの壁に立ち向かわなければならないという
事実があるということだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「十三(じゅうそう)の『帰国者の友』」 2012年7月11日(水) No.392

2012-07-11 20:49:12 | 中国帰国者
「帰国者の友」という任意団体がある。
大阪淀川区の十三に事務所まで構えている(エヘン)。
中国から日本に帰って来られた方々の苦境を知り、
見て見ぬふりできない八っつあん・熊さんたちが集合して4年前に立ち上げた中国帰国者支援のグループだ。
かく言う私もその一人である。
心中ひそかにNPO法人化を目指しているが、あくまでも「そのうちにね~」という状態。
そこにはもちろん帰国者一世、二世、その家族も参加しているので、
私は、支援者、当事者がともに作る「帰国者友の会」に名前を変えたいと考えているのだが、
参加者は誰も名前なんかにこだわっていない。
これもまた「そのうちにね~」状態である。
十三駅東口から淀川通りを5分歩くと、新淀川区役所が左側に、右側に「十三東」のバス停があり、
「帰国者の友」はそのバス停を淀川土手の方に一筋入ったビル「ロマネハウス」の2階にある。

「ロマネハウス」はこのビルの実権を握る?キョーコさんが名づけたものだが、
出所は「ロマン」とか「ロマンチック」かと思いきや
「ロマネコンティ」・・・つまりフランスかどっかのワインの名前だ。
2階「帰国者の友」事務所は、ふだん学習塾や中国語教室として使われているが、なぜか冷蔵庫にはいつもビールやワインがゴロゴロ入っている。

7月25日(水)、ここでイベントをする。
今年度「解放文学賞」佳作に選ばれた我らが西井澄さんの話を聞くという、ただそれだけの会だ。
でも、主催者の私はとても楽しみだ。
100人集まる会もいいが、
少人数でお茶を飲みながらのおしゃべり会もいいものだ。
茶飲み話につきものの漬け物も用意する。
中国茶も、日本の玄米茶もある。
十三名物の黄身ロールも買おうっかな。
 イベントって、家にお客さんをお招きする感覚に似ているな。
下は、25日のチラシ。

-------------------------------------------------------------
LIVING HISTORY ~私は満州開拓団の子どもだった~
澄(すみ)姐(ねえ)さんの身の上話
   「あの戦争は何の役にたったのか」
《西井澄さんの略歴》
・1936(昭和11)年3月:高知県中村市川登に生まれる。
・1942(昭和17)年5月:吉林省舒蘭県に高知開拓団として
                家族4人(両親・自分・妹)で入植。
・1945(昭和20)年6月:2番目の妹誕生、父兵役に取られる。
             8月:母・2人の妹と逃避行開始。
・1981(昭和56)年8月:日本に帰国、豊中市在住。

*ご自身の歩みを綴った作文が2012年度解放文学賞佳作受賞!
 今も毎晩天満橋の夜間高校に通う76歳、現役高校生。 
そんな西井澄さんの人生話が聞きたくなりました。
漬け菜噛みかみ、お茶を飲みながら…。
あなたもご一緒しませんか。
  
7月25日(水)午後1時より
ロマネハウス(2階・帰国者の友):大阪市淀川区十三東1丁目8-3
(十三駅・淀川通り・淀川区役所道路向かいバス停の裏側)
電話:090-3659-4565 E-mail:10year-after@live.jp          
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「いつの間にか加担しないために」 2012年7月9日(月)No.391

2012-07-09 22:12:14 | 中国帰国者
黙っていたら原発は稼働する。
反原発行動は、人をこれ以上殺さないためのものだ。

原発だけじゃない。
あちらでもこちらでも、沈黙が賛成とカウントされる嫌な時勢だ。

過去にもそんな体験を日本はしている。
あの戦争のとき、大衆は国家のなすことに黙って従った。

満蒙開拓の美名の下に、日本人は中国東北地方・内蒙古へと大東亜共栄圏拡大の先兵として出むいた。
それが誰のためになったか。
日本人も中国人も、何も得していない。
大人は、(国のでたらめな宣伝に乗せられて、つい応じた自分が浅はかだった)と
言えるのかも知れない。
しかし、そんな大人達について行かざるを得なかった子どもがたくさんいた。
敗戦でたくさんの子どもたちは、ただ殺された。
殺されなかった子は残留孤児になって中国の大地に取り残された。
侵略と収奪でボロボロになった中国の新国家建設の中で、
日本人が生きていくということは、どういうことだったのか、
「おんなじよ。日本国内でも皆辛酸を舐めて生きてきたのだから。」
とは、決して言えない。

9歳や10歳で中国台地を逃げまどい、毎日人が死ぬのを見続け、妹の命をも彷徨の中で失った
西井澄さん。
文化大革命後、生きて日本に帰ってきた彼女は、
70歳を過ぎた今も、自力で大阪の夜間高校に通っている。
彼女が書いた作文が、今年度の「解放文学賞」佳作に選ばれた。
受賞の喜びを800字以内で書くよう言われたが、
彼女は、身近に自分が書いた文の推敲を頼める人がいなくて、
締切もせっぱ詰り、今月21日の授賞式出席を断念したという。
それを聞いて、本当に残念だった。

今月25日(水)午後1時から、
淀川区十三のロマネハウス2階で、西井澄さんの話を聞く会を開く。
近所の人同士といっても、八っつあん、クマさんの関係が築けなくなっている大阪の街。
それに棹差していく。
身近な先輩に、自分が生きてきた歴史を教えてもらうことは、私たちや、若い人、子どもたちにとって
どれほど大切か。
来られる人は、ぜひ話を聞きに来てほしい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする