ここ二カ月ほど、夏目漱石の作品を読んできた。
「漱石がアジア蔑視していた」という漱石批判を知るにつけ、
漱石という人は一体どういう人だったんだろうと考え込まざるを得なかった。
漱石=差別者という主張は、
漱石の紀行文『満韓ところどころ』と漱石による朝日新聞記事『満韓視察』に対するものだ。
批判者の引用部分だけを見て(漱石はなんて酷いやつだ)と
決めつける愚を避けるために、取り合えず『満韓ところどころ』を青空文庫で読んでみた。
私はこの文章を『こゝろ』『道草』の後に読んだのだが、
『こゝろ』の、容赦なく心理を追及し、
読者の心まで締め上げるような緊張した描写とはまるで違い、
この『満韓ところどころ』は、
『吾輩は猫である』的な目で事象を眺めた、気楽で伸び伸びした文章だと思った。
内容は1909(明治42)年9月2日東京を発ってから、
一カ月半ほどの満州朝鮮の旅を綴った紀行文で、東京朝日新聞に掲載された。
旅のきっかけは『それから』を書きあげた直後、
大学予備門以来の親友中村是公(当時満鉄総裁)に招待されたことだという。
『満韓ところどころ』には錚々たる肩書のかつての悪ガキ同窓生たちが何人も登場するが、
それがこの紀行文の文体を決定したと私は思う。
因みに、ここに登場する漱石の主な友人を挙げると、
・中村是公(大学予備門同級生、落第仲間):満鉄総裁
・立花政樹(大学英文科先輩):大連の税関長
・股野義郎(『吾猫』の多々羅三平のモデルと言われて嫌がっていた友人)役職不明
・橋本佐五郎(大学予備門以前からの馬鹿で腕白の友人の一人、落第仲間):東北大学教授
・佐藤友熊(大学予備門以前からの旧友):旅順の警視総長
旅行後、漱石自身が寺田寅彦に当てた手紙の中で
この旅が「アリストクラティック(上流階級)」のものだったと書いたそうだが、
この肩書を見たらさもあらん、と納得する。
漱石が書いた対象は現地の中国人や朝鮮人ではなく、
大陸に活路を見出した日本人(しかも上層、しかも旧友)であり、
巡った旅程は典型的な観光コースとあれば、
内容は推して図るべきではないだろうか。
それに、これは断ったらしいが、
中村是公満鉄総裁から満州在住日本人向けの新聞を発行してほしいと依頼もされたそうだ。
人情厚い江戸っ子漱石には旧友たちのことを
「日本帝国主義や侵略の先兵」と記述する意志は持ちようがなかったに違いない。
この『満韓ところどころ』は
背景にこのような事情を持つ内容の文章だと私は思う。
ちょっと拙い例えを考えてみた。
あの黒柳徹子は「徹子の部屋」に仲良しの大金持ちゲストが来たからといって、
貴方が暴利をむさぼったために世界中で子どもたちが貧困にあえいでいるなどと
いちいち訴えたり糾弾したりはしない。
それと似たところはないだろうか。
確かに漱石は満州のクーリー(苦力)を何度も「汚い、汚い」とこき下ろしている。
しかし、漱石は満韓の旅の終わりに日本に降り立ち、
次のような日記も書いている。
「此汽車の悪さ加減と来たら格別のもので普通鉄道馬車の古いのに過ぎず。夫で一等の賃銀を取るんだから呆れたものなり。乗ってゐると何所かでぎしぎし云ふ。
(略)
小さな汚い部屋へ入れる。湯に入る。流しも来ず。御茶代を加減しゃうと思ふ。」(註1)
〈此汽車〉とは大阪―京都間のこと、
〈小さい汚い部屋〉とは京都三条小橋の宿屋のことだそうだ。
満州のクーリーに対しての記述を中国人差別というなら、
大阪―京都間の汽車や京都の宿屋に対しても漱石は上から目線で差別したと言えるだろう。
しかし、誰もそれは問題として取り上げない。
また、漱石は旅で出会った梨畑の主人(中国人)を
「背の高い大きな男で支那人らしく、落ち着き払って立っている」とリスペクトし、
外の温泉から上がった後、辺りを見回してみた風景を
「牛と馬が五六頭水を渉って来た。距離が遠いので小さく動いているが、色だけははっきり分る。皆茶褐色をして柳の下に近づいて行く。牛追いは牛よりもなお小さかった。すべてが世間で云う南画と称するものに髣髴として面白かった。中にも高い柳が細い葉をことごとく枝に収めて、静まり返っているところは、全く支那めいていた。」
と中国由来の南画を引き合いにして趣深いことを表し、
「長屋門を這入ると鼠色の騾馬(らば)が木の株に繋いである。余はこの騾馬を見るや否や、三国志を思い出した。何だか玄徳の乗った馬に似ている。全体騾馬というのを満洲へ来て始めて見たが、腹が太くって、背が低くって、総体が丸く逞しくって、万事邪気のないような好い動物である。」と、自分が昔から深く親しんできた中国文学を騾馬への眼差しとして語っている。
漱石の旅の後半は、胃炎に苦しみながらの
橋本さん(東北大教授)との弥次喜多珍道中だった。
弥次喜多と言えば、江戸っ子十返舎一九が本家本元だが、一九の著作
『滑稽旅賀羅寿(こっけいたびがらす)』(註2)には下のような記述がある。
信濃の旅で宿泊を請い、夜ご飯まで出してもらった農民の家の様子を書いたものである。
世話になっておきながらこれだ。
江戸っ子の「滑稽」「諧謔」は、ズケズケ言うことを本領としているようだ。
———ここから———
「この家畳というはなく皆筵(むしろ)を敷き詰めたり」
「行燈はなく薪たくさんなれば囲炉裏(いろり)にしたたかくべてその明かりにて何事もするなれば、味噌を摺(す)る手元暗がりにて何をするやわからず」
「梁の上より煤下がりて食い物のうちへ落ちたるも構わず」
「囲炉裏の端には七、八歳ばかりの女の子と四つ、五つばかりの男の子蕎麦餅を灰の中に押し込み焼きて食い」
「亭主は囲炉裏の灰の中へ唾をしながら」
「赤鰯を火箸にて挟みて炙りける」
「女房膳を据えたるを見れば真っ黒に煤(すす)びたる日光膳に朱椀の縁欠けて漆(うるし)剝げたるに」
「飯と汁を盛りて出せしが」
「玉味噌にて臭く飯は水づきて食われず」
……いやはや、なんとも(笑)。さすが、漱石の先輩だな。
註1)三谷憲正「夏目漱石におけるアジア」SK00010L245.pdf (bukkyo-u.ac.jp)より引用
註2)文政二年、伊那から松本、松代などを巡る旅をした十返舎一九は、その道中酒を飲み過ぎて出立が遅れ、宿場町手前で日が暮れてしまったので、小さな集落の百姓家に泊めてもらったという。この時の見聞記が『滑稽旅賀羅寿』である。『豊作でござるメジロ殿』(作画ちさかあや・原恵一郎)22話より孫引き
↓我が裏庭
虫に寄って集(たか)られているレモンバームが花をつけ始めた。
毎年のことながらレモンバームはどんな酷くやられても種を付け子孫を残す。
負けちゃいないのだ。同じ虫が青じそも食べている。見つけたら潰す。
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