夏目漱石(金之助)と森鴎外(林太郎)は誰もが認める明治の二大文豪だが、
両者とも明治国家の命により官費留学したという共通性がある。
漱石はイギリス、鴎外はドイツに留学し、
学問知識のみならず価値観、思考方法など当時の西洋文明を懐深く理解して帰国した。
しかし、鴎外が22歳からの4年間、漱石が33歳からの2年間の滞在だったことを思うと、
若く滞在時間も2倍長い鴎外の方が、より広く深い影響をこのヨーロッパ滞在から受けたことは間違いないだろう。
鴎外は、家父長制と出世のために挫折したものの、ドイツで人生稀な大恋愛も経験した。
33歳の漱石はロンドンでどうだったかというと、次のような文がある。
「余の如き東洋流に青年の時期を経過せるものが、余よりも年少なる英国紳士についてその一挙一動を学ぶ事は骨格の出来上りたる大人が急に角兵衛獅子の巧妙なる技術を学ばんとあせるが如く、(中略)不可能の事に属す。」(『文学論・序』)
(いや、分かるわ。ホンマ)
漱石は東京帝国大学在学時から
「英文学とは何か?自分が英文学を学ぶ意味はあるのか?」
と疑問を持っており、
未だ答えを見いだせていなかった。
それなのになまじ英語の成績が抜群だったために、
既に愛媛や熊本で教師の仕事に就き、結婚して子供もいたのに、
言ってみれば、いやいや留学させられたのである。
しかし、さすが漱石、ただ英国で神経衰弱を患って帰ってきたのではなかった。
彼は、文学探求の方向性をここで掴んだ。
英国留学時、国家から命じられたのは
英語及び英文学のエキスを吸収して日本に持ち帰るということだった。
それは漱石を英国人・西洋文学への従属、奴婢ではないかという煩悶状態に陥れたが、
そこから脱したのが、「自己本位(自我本位)」の四字との邂逅であり、
以後、漱石の文芸(また、人生)に対する立脚地を堅めたのもこれだった。
従属して丸暗記するのではなく、自分で自分の道を見つけることが自信になる。
その際、自己は主であり、他は賓である。(註:『私の個人主義』より要約)
・・・漱石の個人主義思想がガッツリ形成されていったのである。
今、赤文字部分を読んで(当たり前じゃん)と思う人もいるだろう。
しかし、現代生活でそれを実際、徹底的に実践している人はどれほどいるだろうか。
漱石は本当に真っ正直に、死ぬまで貫いた人だということが
読めば読むほど、ひしひしと感じられ、
漱石に対して「国民的作家」という安っぽいレッテルを貼るのは
まったく的外れだと思う今日この頃である。
青い鳥文庫『坊っちゃん』
*私が読んだ『私の個人主義』『文学論・序』『道草』はネット図書館・青空文庫による。
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