漱石の「差別発言」についてあれこれ言う前に
漱石が江戸牛込生まれの生粋の江戸っ子だったことを念押ししておきたい。
てやんでい、べらぼうめいの気風(きっぷ)の良さ、
相手構わずズケズケ言ってのける向こう気の強さ、
そして、弱きを助け強きをくじく人情の厚さ、
こうした江戸っ子気質を漱石も十分にそなえていたと思われる。
『坊っちゃん』、『吾輩は猫である』などの作品を読んでも分かるが、
漱石はあの暗い自伝的小説『道草』の中ですら、
長女、次女に続いて生まれてきた赤ちゃんがまた女の子だったとき、
主人公の健三(夫)に「そう同じものばかり産んで、どうする気だろう」と
心中呟かせている。
長女は赤ん坊のころは美しかったが、
生育につれ容貌が父親(自分)の相好の悪いところに似てきたと書き、
また次女、三女については、
「あごの短い眼の大きなその子は、海坊主の化物のような風をして、
其所いらをうろうろしていた。」
「三番目の子だけが器量好く育とうとは親の慾目にも思えなかった。」
「ああいうものが続々生れて来て、必竟どうするんだろう」
と続けている。
私はこの言い草に江戸っ子の自虐的とすら言える滑稽表現を感じた。
しかし、これを笑うどころか
「懸命に出産した妻に対して失礼だ」と言う人もいるのである。
百人百様であり、感じ方は人それぞれ違うということで
簡単に終えてもいいのかも知れない。
それでも、北海道で生まれ育ち18歳で関西に移住して以来、
長年、東西文化の中の笑いのビミョーな違いを感じ続けてきた私は、
「国民的作家」と言われる漱石の表現の中の江戸っ子気質は、
時代を超え、地域を超えて日本全国共通のものとして認識され得るのか、
ちょっと心配してしまうのだ。
↓また買ってしまった……。この間本棚を整理したばかりなのに……。
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