「街場の戦争論―グローバリズムと憲法九条―」とタイトルのついた
兵庫県東灘九条の会の内田樹さんのお話で心に残ったことなどをメモしておく。
(ただ私の思い違いとかあるかも。その時は内田先生、どうもスンマソン)
内田樹さんの本はたて続けに読んでいた時期がある。
どの本も、(あ、そうそう、私もそこに拘っていたんだよね。
これで霧が晴れたわ!)とか、(うわ、まさに言いたいことをスパッと!)
という風に、読むとたいへん気分が良くなるので、逆に、ある時、
(これは麻薬効果だ。自分の頭で考えるためには、安易に手出しすべきではない)
と判断し、ここ2年ほど遠ざかっていたのが、内田樹さんのご本なのである。
もちろん、内田さん本人を否定したわけでは決してなく、
一度は直に講演をお聞きしたいと願っていた。いい機会だった。
内田さんはかなり危機的な状況を語っても、語り口があっさりしており、
ときおりジョークすら混じるので、明るい暁の絶望、みたいな感じ(笑)。
今の日本の現実と戦争当時の情況を比べることから話はスタートした。
「今の状況を“戦前みたいだ”という人がいるが、正確には、そこまで酷くない。 治安維持法がまだないからだ。 それが証拠に、今この場で私が話をすることも今はまだ、現実にできている。 敗戦までの20年間で、治安維持法により逮捕され、獄中死した人は1600人、直接拷問によって殺された人は100人いた。」
「しかし」と、続く。
「治安維持法により徹底的に弾圧された時代ですら、抵抗勢力はあった。 今は、言論が直接弾圧されるということはない、つまり、言論の自由はある。 それなのに、メディアは自由に述べない。昔よりもっと酷い。 なぜか。睨まれると出世コース、キャリアパスから外れるからだ。 そうして出世したマスコミトップの人々は、 『おれは一般の人が知らない情報に精通している』 という知的全能感(満足感)に浸っている。
このままいくと、世界史に類のない読者数、即ち、分厚い知的中産階級層を抱えていた日本の新聞メディア文化の崩壊は目前である。 (例:仏ルモンド紙・30万部、英ガーディアン紙・25万部、ニューヨークタイムス・100万部、読売新聞1千万部、朝日新聞700万部…)
現在、新聞読者の多くは中高年層であり、60~70代がボリュームゾーンだ。 加齢が新聞文化を斜陽化させる。 もう一つ、階層分化、貧困層の増大がそれに拍車をかけている。
あと10年経つと日本国内で全国紙が消えるかも知れない。 それは何を意味するか。 全国紙とは、「言論のプラットフォーム」である。 即ち、色々な立場の意見がすりあわされる場を提供しているのが全国紙である。 それがなくなるということは、景色が一色になること、言論の蛸壺化がおきる。 擦り合わせるところがない。 地方紙では補うことのできない全国紙の価値がここにある。
今ですら、ネット社会を先頭に日本では対話能力が無くなりつつある。 それは国会にまでおよび、怒号・野次のみ、言いっぱなしのみで、いかに平然と嘘を言い続けるかの技術ばかりが発達している。 「私は全部正しくて、お前は全て間違っている」 という、擦り合わせる力、対話力のなさが目立つ。
1950年代、アメリカ上院にジョセフ=マッカーシー(マッカーシズムで有名)がいた。 彼は「国務省に共産主義者が205人いる!」と平然と大声で断言的に虚言を発し、数はそのとき、そのとき変わっても、嘘をつき続ける姿勢は一貫していた。 アメリカの人々はこう思った。(共和党の上院議員ともあろう人が、あれほど堂々と言っているんだ。きっと根拠があるのだろう。きっと本当なんだろう)と。
ジョセフ=マッカーシー1人がアメリカにもたらした損害は計り知れないものがある。 それと今の日本はそっくりだ。 病的な嘘つき=安倍首相の、最も世界的に有名な代表的嘘は、2013年4月22日に『村山談話は継承しない』と公言しておきながら、一か月もたたない5月15日には『継承しないとは言っていない。』と述べたことである。 当然、この言い換えはアメリカの要請による。
――――――つづく
書いているうちにまた腹が立ってきました。今日はここまで(ブルーはーと)。
I AM NOT ABE |
I am not Abe!
そう、そうなんです。まず自分がしっかりしないとね。
特に私は素直で(笑)、激しく共感してのめり込むタイプなものですからくれぐれも自戒しないと。
若い頃の苦い経験から、(人間が人間を崇拝してはいけない)と、しみじみ思い至っています。
私が崇拝して止まないのはお天道様と自然です。