物心付いたときは既に施設で生活し、
19歳で外の世界(地域)に飛び出したとき、
木村英子さんは、
(死ぬまで閉じ込められて生かされるくらいなら、
死ぬかも知れないけど、地域で生きてみたい!)
ただ、それだけを思っていたそうです。
相模原の障害者施設「津久井やまゆり園」で19人の障害者が殺害され、
26人が負傷した事件について、
「彼(特殊な人間)だから起こしたとは思わない」と木村さんは言います。
多くの施設で、
障害者はその仕打ちに麻痺しなければ命を保つことができないほど
職員の虐待や差別が密室の中で横行している現実があり、
職員は自分のしていることに罪悪感を抱かなくなる。
その差別への麻痺感覚は植松聖被告のものと同質である、と。
木村英子さんもそうした施設で18年間生きてきた人です。
いわば、殺されたかも知れない当事者です。
『生きている!殺すな――やまゆり園事件の起きる時代に生きる障害者たち』
山吹書店の木村英子さんの施設での日々が綴られている部分を、
キーボートで打ち込んでみました。
↓ ↓ ↓
木村英子「私が地域へ帰るとき」
朝、目が覚めて「ここはどこだろう」と辺りを見回す。隣に寝ている夫と息子の顔を見て、ここは我が家だ、ここが私の現実なんだと実感し、やっと安堵する。ときおり、私はまだ施設にいて、地域で家族と暮らす今の生活は夢ではないかという錯覚に陥り、そして絶望感に襲われる。
施設にいたときよりも地域に出てきてからの生活の方が長いはずなのに、いまだに施設にいるような感覚に戻され、突然、幼児体験がフラッシュバックしてくる。あの頃の痛みが私の潜在意識に深く刻まれ、大人になった今もなお消えることはない。
施設という名の牢獄
私は、1965年に横浜市で生まれた。生後8ヶ月の頃、歩行器ごと玄関へ落ちて、障碍者になってから施設に預けられ、家庭を知らずに育ってきた。物心付いたときは施設のベッドの上だった。見えるのは、白い天井に並んだ四角い線とその中に無数にある黒い点。ベッドの上では、その丸い点を数えながら空想の旅に出る以外やることは何もなかった。朝、目が覚めると「また今日が来ちゃった」とがっかりする。看護婦が6時に体温を測りに来る。そこから悪夢の一日が始まる。
7時に朝食。それまでに着替え、洗面、トイレを済ませ、矯正靴を履き、食堂へ杖をついて長い廊下を歩いて行かなければならない。歩くのが怖くて遅い私にとっては、千里にも等しい遠い道のりだ。当然、1時間では間に合わず、食堂に着いたとたん、みんなの視線がいっせいに私に突き刺さる。
お局(いちばん長くいるいちばん怖い看護婦)が、私を睨んで、口元には薄ら笑いを浮かべながら言う。
「ほらみんな見てごらん。またこの子、遅刻だよ。お前は今日もご飯抜きだよ。みんなに土下座して謝りな」
「ごめんなさい」
「もっと大きな声で言わないと聞こえないよ。さあ、この遅刻魔にみんなも何か言いな」
そう言って、子どもたちに指をさし始めた。指された子は、
「英子ちゃんの遅刻魔、のろま、バカ、まぬけ」
と、順番に罵声を浴びせる。仲の良い友だちの番になると、その子は気まずそうに小さな声で呟いた。でも、その目はごめんねと言っているようにも見えた。
私は本当はすごく泣きたいのに、恥ずかしさと悔しさと恐怖で涙が出なかった。私のあとに遅れてきた子も、同じようにいびられた。その子は耐えられず泣き出してしまった。
食事が終わり、みんなが去った後、一人廊下の隅で泣いていると、さっきお局の酷い仕打ちを見て見ぬふりをしていた新人看護婦がそっと頭を撫でてくれて、
「英子ちゃん、よくがんばったね」とお握りを私の手に乗せてくれた。
「私があげたことは決して言ってはだめだよ。バレたらもうあげられなくなっちゃうからね。」
彼女はそう言って去って行った。嬉しくて泣きながら食べたお握りの美味しさは今でも忘れられない。
鬼のようなお局はどの病棟にも必ずいる。子どもたちはその日の虐めのターゲットにならないように、あの手この手を使って、嫌われないように振舞うしかなかった。
朝食が終わると、子どもたちは首にカードをかけられ、午前中は足や手の機能訓練に行かされる。私はいつも痛いことばかりされる訓練が大嫌いだったので、泣いてばかりいた。午後は、病棟から廊下で繋がっている付属の養護学校で授業を受ける。私にとっては、地獄のような病棟の生活の中で唯一の安らぎの場所だった。だから、授業が終わると病棟に帰りたくないと先生にいつも駄々をこねた。特にその日の泊まりの看護婦が私を虐める人だった時は、職員室に隠れて先生に
「帰ったらボイラー室に入れられるから帰りたくない」
とべそをかいた。先生は困った顔をして、
「英子ちゃん、ごめんね。また話は聞いてあげるから、これ以上ここにいたらもっと怒られるから帰ろうね」
と、エレベーターに乗せられた。
病棟に着くと、案の定、お局看護婦は私を睨みつけて
「本当にお前は出来の悪い子だね。お仕置きをしなきゃね」
とニヤリと笑った。洗面と着替えを終え、7時半にベッドに入る時間になっても私のところには誰も来てくれない。周りの子どもは一人ずつベッドに上げてもらえるのに、私だけ看護婦が素通りして行く。隣のベッドの友だちは心配そうに私を見る。私は怖くて看護婦に声もかけられない。
8時、病棟の電気が一斉に消される。暗闇の中で隣の友だちが小さい声で「英子ちゃん、私が手伝ってあげる」と言って身を乗り出し、手を差し伸べた。だけど到底無理だった。友だちは「できないよ、ごめんね」と言っていつか眠ってしまった。私は仕方なく冷たい廊下にうずくまって寝るしかなかった。でも、冷たい廊下では寝られないどころかトイレが当然近くなる。
そしてやっぱりトイレに行きたくなったが、いつものお仕置きが頭に浮かび、怖くて看護婦を呼ぶことができず、冷たい廊下を這いずってトイレに向かう。トイレはナースステーションの向かい側にあり、少しずつしか進めない私にはとても遠い。看護婦に見つからないように息をひそめて、おしっこが出そうになるのを我慢しながら這いずり続けてどれくらい時間がたったか分からない。とうとう間に合わずおもらしをしてしまい、巡回に来た看護婦に見つかり、恐れていたお仕置きはまたもや現実となった。
「またお前なの、懲りない子だよ。ボイラー室で反省しな」怒鳴りつけられて、お尻を数回叩かれた。
「ごめんなさい、もうしません。お願いです。ボイラー室に入れないで」と叫んだが、容赦なく入れられた。友達が同じようなお仕置きを受けたとき、その子は恐怖のあまりてんかんを起こし、痙攣して白目を剝いて倒れてしまった。
そんな悲惨な毎日が、私とそこに預けられた子供達の当たり前の日常であり、避けがたい現実だった。毎日が生きた心地がしなかった。夜寝る前には「神様、どうか明日は酷い目に遭いませんように」と祈り、朝目が覚めて白い天井を見ると、また日々の恐怖の思いが身体に甦り、「神様、どうか今日は虐めに遭いませんように」と祈ることが私の日課になっていた。
天使が悪魔に変わるとき
新人看護婦は、誰にも甘えられない子どもたちにとって一時(いっとき)のアイドルだ。新人看護婦が入ってくると嬉しさのあまり、われ先にと新人看護婦に群がって行く。
「ねえ、私を抱っこして」「ぼくも」「わたしが先よ」
新人看護婦の身体は子ども達が乗っかって、みるみるうちに見えなくなる。その光景の先にお局看護婦の睨みつけている顔が見える。私は背筋がぞっとしながらも、今の一瞬の幸せを逃したくなくて、周りの子を押しのけてまでも必死に抱っこをせがみ続けた。親から離れ、愛情に飢えている私と周りの子ども達にとって我慢できないほど欲しかった束の間の幸せだった。
しかし、その幸せは一瞬にして消えてしまう。その後、新人看護婦はお局看護婦に恒例の新人いじめを受けるからだ。何回か目撃したが、とても怖い光景だった。新人看護婦はお局看護婦たち3,4人に施設の庭に連れ出され、身体をどつかれながら嫌味を浴びせられる。隠れてみている私には全部は聞こえないが、こんなことを言われていた。
「子どもたちにチヤホヤされていい気になるんじゃないよ。あんたが甘やかすと風紀が乱れるんだよ。これからは余計なことをするんじゃないよ。わかったら謝りな」
新人看護婦は泣きながら病棟に去って行く。
その後、その新人看護婦に「ねえ、看護婦さん遊んで」とねだると、怖い顔をして「もう私に話しかけないで。あっちへ行って」と、冷たく追い払われる。白衣の天使が悪魔に変わる瞬間である。初めは希望にあふれていた優しい新人看護婦は、一年も経たないうちにお局看護婦と変わらない鬼看護婦に変貌していく。子どもたちは次第に声をかけなくなり、看護婦の目を見なくなる。
施設の中では、多かれ少なかれ虐待は毎日のようにある。もちろん、虐待をする看護婦や職員ばかりではない。普通の良識を持っている人もいる。少数ではあったが、私をかばってくれたり、可愛がってくれた職員もいたおかげで、私は希望を諦めずに前に進む心を養われたと実感している。
しかし、施設の環境は、障碍者の感覚を壊していくだけでなく、働いている職員の感覚(良識)をも麻痺させていく。なぜなら、地域の中ではあり得ない理不尽な日常が施設で繰り返されていくうちに、お互いにその生活が当たり前に思えてくる錯覚に陥っていくからである。例えば、暴言や虐待が行われていても、誰も止めない。密室で行われているので、外に知られることはない。障害者は差別や虐待をされることに麻痺しなければ命を保って行くことができないのが現実であり、職員は虐待をすることが許されている環境の中で、徐々に何の罪悪感も抱かなくなっていく。これが施設で生まれる恐ろしい麻痺の連鎖である。このような環境が当たり前であれば、やまゆり園のような事件が起こっても不思議ではない。私の子ども時代は、施設の決められた時間の中で、リハビリ、授業、手術、虐待が繰り返され、それが当たり前の生活として、身体に、心に、潜在意識に、刷り込まれていった。施設に入れられている私たちは、地域ではぐくまれるべき本当の「当たり前」を知らない。それがどんなに私たちのその後の人生を狂わせてしまうのか、その大きな罪は外の世界に知られることはない。そして、誰も知ろうとしない。
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その後、19歳で施設を飛び出し、
東京都国立市で自立生活を始めた木村英子さんの呟きです。
19歳で初めて一人で外へ出たとき、大勢の人がいるのに驚いた。
19歳で初めて一人で外へ出たとき、外の広さに圧倒された。
19歳で初めて一人で街行く人に声をかけた。
19歳で初めて一人で電車やバスに乗った。
19歳で初めて一人で同じ歳の健常者に話しかけて友達になった。
私が地域を初めて知ったのは19歳・・・・・・。