犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

「ささやかだけれど、役にたつこと」と小確幸

2021-12-30 23:37:21 | 
写真:Amazonより

※ネタバレ注意

「ささやかだけれど、役にたつこと」は、作家レイモンド・カーヴァーの短編小説です。日本語版は村上春樹が翻訳しています。

 Wikipediaによれば、

村上春樹の造語「小確幸」(しょうかっこう)は本作品の原題 "A Small, Good Thing" に由来する。

ということです。

 村上春樹は小確幸を「小さくはあるが確固とした幸せ」もしくは「小さいけれども、確かな幸福」と定義しています。、

 村上春樹の「小確幸」というタイトルのエッセイは、エッセイ集『ランゲルハンス島の午後』(1986年刊)に収録されていて、執筆時期は85年もしくは86年(雑誌クラッシーに連載)と思われます。

 一方、レイモンド・カーヴァーの「ささやかだけれど、役にたつこと」の翻訳初出は『文學界』1988年10月号なので、エッセイのほうが早く刊行されています。

 もちろん、アメリカで1983年に発表された「A Small, Good Thing」を、村上春樹は「小確幸」というエッセイを書く前に読んだ可能性もあります。

 私はこれまで村上春樹が翻訳したスコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』やサリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は読んだことがありましたが、レイモンド・カーヴァーは読んだことがなかったので、これを機会に「ささやかだけれど、役にたつこと」が収録されている『Carver’s Dozen』という短編集を読んでみました。

 以下、「ささやかだけれど、役にたつこと」のあらすじです。

〈あらすじ〉

 誕生日の朝、少年は通学途中に交通事故に遭った。少年は跳ね飛ばされて頭を強く打った。運転手はが振り返ったが、少年が立ち上がるのを見てそのまま走り去った。少年は帰宅後、気を失った。驚いた母親は救急車を呼び、少年は入院。

 両親は病室で少年を見守り、交代で一時的に家に帰る。そのとき、家に電話がかかってきた。実は、母親が誕生日の二日前にバースデーケーキを注文しており、取りに来ないのを不審に思ったパン屋の主人が掛けてきたのだが、動転している両親はそれに気づかず、嫌がらせの電話だと思い込んだ。

 両親の看病と祈りの甲斐もなく、少年は昏睡状態のまま二日後に息を引き取った。

 夜、失意の夫婦が帰宅すると、また電話がかかってきて無言のまま切れた。母親は無言電話の正体がパン屋の主人であることに思い到った。二人は激高し、閉店後のパン屋にどなりこんだ。そして息子が死んだことを伝えた。

 すべての事情を知ったパン屋の主人は、自分が嫌がらせの電話を掛けたことを深く後悔し、二人に詫びた。主人は二人を椅子に座らせ、語り始めた。

「本当にお気の毒です。…なんとも言いようがないほど、お気の毒に思っております。あたしはただのつまらんパン屋です。それ以上の何者でもない。昔は、何年か前は、たぶんあたしもこんなじゃなかった。でも昔のことが思い出せないんです。あたしが一人のちゃんとした人間だったときもあったはずなのに、それが思い出せんのです。…あたしがやったことが許してもらえるとは思っちゃいません。でも心から済まなく思ってます。あんたのお子さんのことはお気の毒だった。そしてあたしのやったことはまったくひどいことだった。…」

 主人は二人にコーヒーをすすめた。

「何か召し上がらなくちゃいけませんよ」とパン屋は言った。「よかったら、あたしが焼いた温かいロールパンを食べて下さい。ちゃんと食べて、頑張って生きていかなきゃならんのだから。こんなときには、ものを食べることです。それはささやかなことですが、助けになります」と彼は言った。

 夫婦は出された、焼き立ての温かいシナモン・ロールを食べ、コーヒーを飲んだ。パン屋の主人はそれを見て喜んだ。それから彼は話し始め、パン屋の話にじっと耳を傾けた。

 パン屋は結婚せず子供もいない孤独な生活の寂しさ、中年期に感じた疑問と無力感、毎日パンを焼くことだけを繰り返す毎日について語った。パーティ用のパン、お祝いのケーキを作り続けること、ケーキを飾る何百、何千の新郎新婦、誕生日の子供の名前…。

 パン屋と夫婦は、食べられる限りパンを食べながら、お互いのことを、夜明けまで語り続けた。…


 訳者村上春樹は、この短編(A Small, Good Thing)の扉裏に、簡単な紹介文を書いています。

原題は『小さな、良きもの』。話の中では焼きたてのパンのことである。

 村上春樹はそれを『ささやかだけれど、役に立つこと』と意訳しました。このフレーズはさきほどの抜粋の中に出てきます。

 焼きたてのシナモン・ロールは、息子を失った悲しみに打ちひしがれる夫婦と、歪んだ性格のために嫌がらせ電話をかけてしまったパン屋が、互いの気持ちを、それまでの人生を打ち明けるきっかけとして、大きな役割を果たしました。

 村上春樹の『うずまき猫のみつけかた』(新潮文庫)には、「焼きたてのパン」の話が出てきます。

 のんびりと散歩がてら近所のパン屋に買い物に行って、ついでにそこでちょっとコーヒーを飲みながら(アメリカのベイカリーには椅子が置いてあって、そこでコーヒーを飲めるところが多い)焼きたての温かいパンを手でちぎってかりかりと齧るのは、僕にとっての「小確幸」の一つである。(165ページ)

 同じ「焼きたてのパン」でも、レイモンド・カーヴァーの小説におけるシナモン・ロールと「小確幸」のパンの意味するところは、似て非なるものです。

村上春樹の造語「小確幸」(しょうかっこう)は本作品の原題 "A Small, Good Thing" に由来する。

というWikipediaの記述には疑問を感じざるをえません。

 ただ、村上春樹はさきほどの紹介文のつづきで、次のような「想像」を書いています。

 カーヴァー自身食べることが大好きだったのではないか? それもたぶん日々の普通の食事を、普通に食べることが大好きだったのだろう。彼の小説はそのようないくつかの「スモール、グッド・シングズ」に励まされて成立しているように、僕には見える。

 もし村上春樹自身が、どこかで「小確幸」の由来はレイモンド・カーヴァーの"A Small, Good Thing"だ、と語っていたとするならば、小説の内容と離れて、このフレーズそのものが「小確幸」という言葉のヒントになった、という程度の意味合いにすぎないのではないかと想像します。

 レイモンド・カーヴァーは村上春樹のお気に入りの作家で、全作品を訳してしまったほどです。

 『レイモンド・カーヴァー傑作選 Carver’s Dozen』に収められた10の小説(そのほかにエッセイ、詩が含まれている)はどれも人生についていろいろ考えさせられる、味わい深い作品でした。

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