朝鮮時代の売春婦としては,まず妓生(キーセン)が思い浮かびますが,韓国人の中には,「妓生は体は売らなかった」と主張する人が多いようです。
妓生は,八賤(八種類の賤 民。非差別民の白丁や,公私の奴 婢,僧侶などを含む)の一つで,中央・地方の官衙(役所)に属し,地方官庁を往来する両班の酒席にはべり,歌舞を披露し,要求があれば夜の相手をしました。ただ,夜の相手は,そのたびにお金をもらったわけじゃないから,売春とはいえないかもしれないですね。この要求を拒むと,「春香伝」の主人公,春香のように牢屋へ入れられてしまう。
高麗から李朝末期まで,約千年の間,全国に常時2~3万人の妓生がいたそうです(『朝鮮を知る事典』)。
中には黄真伊という詩歌に秀でた才妓もいて,今日非常に美化されています(人気ドラマにもなりました)ので,今の韓国人が「妓生は体は売らなかった」と信じたがるのも無理はないかもしれません。
朝鮮の王様に燕山君(在位1494~1506)という人がいます。2006年の人気映画「王の男」(ワンエ ナムジャ)の「王」がまさにこの燕山君。
この王様は,朝鮮史上稀な暴君で,排仏崇儒政策にしたがってソウルにあった由緒ある寺刹,円覚寺を廃し,あろうことか妓生養成所にしてしまいました。このときは,全国から手当たり次第に美女を狩り集め(未婚,既婚,妾,正妻関係なしに),文字通りの強制連行をしたようです。
後にこの跡地は,あるイギリス人の発案で公園(パゴダ公園,現タプコル公園)になり,1919年の3・1独立運動の起点ともなりました。
「独立運動の聖地」は,実は「慰安婦強制連行ゆかりの地」でもあったわけですが,それを知る韓国人は少ない。
王朝と地方官庁にはこのような妓生文化がありましたが,一般社会の売春はどうか。
官妓の中には,民間の酒席には出ない気位の高い妓生もいて,これらは「一牌妓生」といわれました。それより格下の妓生や歳をとって引退した一牌妓生は,町で密かに売春に従事し,「二牌妓生」と呼ばれました。そして,街角で公然と客引きをする私娼は「三牌妓生」。
田舎では,寺党(サダン),広大(クァンデ)など流しの芸能集団や,市場,港の飲み屋(色酒家)が売春の拠点になっていたようですが,なにせあまり貨幣経済が発達していなかったこともあり,それほど盛んではなかったのではないかと思います。
そもそも朝鮮時代は,すさまじい身分制社会で,労働を厭う両班層をささえる奴 婢が人口の約30%を占めていました。売買され,相続の対象でもあった奴 婢は,「人間家畜」に等しく,若い婢女は,主人の文字通り「性の玩具」とされていましたから,需要はそこで吸収されていたかも。
人間家畜の奴 婢制度
奴 婢は品物のように売買・略奪・相続・譲与・担保の対象になった。
かれらはただ主人のために存在する主人の財産であるため、主人が殴っても犯しても売り飛ばしても、果ては首を打ち落としても何ら問題はなかった。
それこそ赤子の手を捻るように、いとも簡単に主人は碑 女たちを性の道具にしたものであった。奥方たちの嫉妬を買った碑 女は打ち据えられたり、ひどい場合は打ち殺されることもあった。外観だけは人間であるが主人の事実上の家畜と変わらなかった碑 女たちは、売却・私刑はもちろんのこと、打ち殺されても殺人にならなかったといい、韓末、水溝や川にはしばしば流れ落ちないまま、ものに引っかかっている年頃の娘たちの遺棄死体があったといわれる。局部に石や棒切れをさしこまれているのは、いうまでもなく主人の玩具になった末に奥方に殺された不幸な運命の主人公であった。
(『ソウル城下に漢江は流れる―朝鮮風俗史夜話』林鍾国、平凡社1987)
96年、国連の人権会に提出されたクマラスワミ報告書で使われた「性奴隷」とは,まさに朝鮮時代の婢 女にこそふさわしい言葉です。両班にしたところで,高位の賓客の訪問を受けると夜伽の女性を用意せねばならず,たいていは妾を差し出しましたが,場合によっては自分の娘や夫人までも差し出すことがあったとのこと。
朝鮮時代の農村を舞台にした小説によく出てくるのは,好色な地主(両班)の要求で泣く泣く娘を妾に差し出し,かわりに小作権や食料をもらうという話です。
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- シェアしました。 (skanno)
- 2020-05-05 11:39:35
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- ありがとうございます (犬鍋)
- 2020-05-05 22:03:13
- 昔の記事を発掘していただき、ありがとうございました。
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