犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

ミャンマー便り~博物館、墓地

2015-08-23 23:52:06 | ミャンマー

「ここと、ここと、ここに行きたいんですが」

 午前中にホテルの部屋で検討したプランを運転手に説明しました。

 日本人墓地。ボージョー・アウンサン(アウンサン将軍)博物館。書店街。ヤンゴン大学……。

「それから、昼ごはんは、フィールというミャンマーレストランに行ってください」

 運転手さんは、しばらく考えた末、

「最初に博物館、それから日本人墓地に行って、昼食にしましょう」

 その順番で行くのが効率的なようです。

 市内に「ボージョー・アウンサン」の名を冠した施設は数多い。競技場とか、市場とか、道の名前とか。ボージョーはミャンマー語で「将軍」。ボージョー・アウンサンというのは、ミャンマー独立の父であり、かのアウンサンスーチーさんのお父さんで、ミャンマー国民から等しく敬愛されています。

 博物館は、アウンサン将軍が住んでいた家なんですね。

 ホテルから車で約15分、細い上り坂をあがっていった丘の上にありました。

 人影はありません。入口におじいさんがいて、英語で靴を脱ぐように指示します。

「それから、中は撮影禁止だから、カメラはこのロッカーに入れて」

 スマートフォンを一つだけ入れました。

 入場料は300チャット(30円)。安い!

 中に入ると、さっきのおじいさんがついてきて、英語でいろいろ説明してくれます。

 最初に将軍の年譜がありました。

 ラングーン(ヤンゴン)大学で独立運動を行い、英国から目をつけられたため、25歳で日本に亡命。日本軍に軍事訓練を受け、独立義勇軍を結成。日本支配下の傀儡政権では国防相。しかし、戦局が悪化し、日本の敗色が濃厚になると、英軍と通じ、日本に反旗を翻す。日本の敗戦後には、英国と粘り強く独立交渉を続け、独立の約束を取り付けるも、独立の日を見ることなく、政敵に暗殺されてしまう。享年32歳。波乱万丈の生涯です。

 壁には、学生時代から、軍服姿の写真、結婚、家族写真などが多数飾られています。

 食堂、居間、書斎、寝室……。家具や食器が昔のままに保存されているんだそうです。

「将軍には三人の子どもがいてね、長男はアメリカに移住した。次男は、不幸にも9歳の時、湖で溺れてなくなった。そして、長女がアウンサンスーチーだ。お母さんはキンチー、おばあさんがスー。つまり、アウンサンスーチーは、お父さん、おばあさん、お母さんの名前から作られているんだ」

 ずいぶんていねいに説明してくれます。

 拝観者は私一人でしたが、一通り見終わったころに、欧米系の観光客が入ってきました。

「説明していただき、ありがとうございました。とてもよくわかりました」

 ロッカーからスマホをとりだし、靴を履いて帰ろうとすると、おじいさんが呼び止めます。

「あなたはお金を払わなければならない」

(えっ?)

 おじいさんのていねいな説明は、有料だったのでした。

「いくらですか?」

「それはあなた次第です」

(入場料が300チャットだから……)

 私はよれよれの100チャット札(10円)をさしだしました。

「そりゃ少なすぎるよ」

(……)

 結局1000チャット(100円)を払いました。安いからいいようなものの、最初から言ってくれればよかったのに。前に同じような経験をしたことを思い出しました(→リンク)。

 次に向かったのが日本人墓地。先の大戦で、ミャンマーの地で戦死した多くの日本人が葬られているそうです。

 場所はヤンゴン空港の近く。かなり遠いところにあるようです。

 途中から、バイクの姿がちらほら見られました。

 ヤンゴン市内は、あまりにもバイクの事故が多発したため、バイクの乗り入れは禁止。墓地は市外にあるので、バイクに乗ってもいいそうです。

 運転手さんも行ったことがないらしく、通行人に道を聞きます。

「ここです」

 一度通り過ぎたところですが、入り口に特別な表示がないので、見逃したようです。運転手さんも初めてきたとのこと。あまり訪れる人もいないのでしょう。

 そもそもミャンマーは上座部(小乗)仏教の国。輪廻思想が生きていますから、死後、「お骨」というものを重要視しません。そのため、庶民の場合、人が亡くなっても火葬しておしまい。墓地はありません。

 日本人墓地は、別の場所にあった2つの墓地を、1998年日本人の遺族会や日本政府の援助で移設し、一つにまとめられたもの。苑内はきれいに手入れされています。

 正面には、政府によって建てられたモニュメントがそびえ、日本各地の戦友会が作った慰霊碑もたくさんあります。その一つに霊苑の由来が書かれていました。


戦没者霊苑の由来

 1941年~45年の大東亜戦争において、日本軍は遠くこのビルマにまで進攻した。当時ビルマは英国の植民地であり、日本軍は戦略上の必要から、この地で英・米・支軍と戦ったのである。だが戦いは我に利あらず、日本軍は19万人の戦没将兵を遺して敗退した。

 この碑は、その時の戦没者の慰霊碑である。

 この作戦間、ビルマの人々は日本軍を歓迎し、援助し、敗戦後も変わらぬ仏心で我々に接してくれた。本当にありがとう。

 この墓地は、タモエとチャンドウの旧日本人墓地の代替として、ヤンゴン日本人会の尽力によって造成された。しかし、霊苑中央の記念碑は日本政府によって建てられたものであり、霊苑の造園その他は、全国のビルマ従軍生存戦友および臍句の錠剤によって完成された。

               1998年3月

  全ビルマ戦友団体

 ずいぶん古い墓もありますが、90年以上前、最初にミャンマーに足を踏み入れたのが、九州出身の女性たち。そうしたからゆきさんの墓かもしれません。

 もっとも多いのは、もちろんあの無謀なインパール作戦で命を落とした数万人の戦死者たち。「ビルマの竪琴」のモデルになったといわれる兵士の慰霊碑もありました。

 新しい墓は、日本に生還した元兵士が90歳を越え、あえて戦友の多く眠るこの地に葬られたいと希望したもののようです。

 かわったところでは、戦後の経済援助の橋梁工事で命を落とした方々、ミャンマーに生まれ幼くして亡くなった子どものお墓。戦死者だけでなく、さまざまな境涯の日本人たちが眠っているようです。

 雨季なのに、空は紺碧、熱帯の強い日差しが照りつけます。しーんと静まり返ったなか、墓地に立っていると、異国の地に散っていった人々のことが感慨深く忍ばれます。

 ふと見ると、運転手さんも墓地の中を散歩しながら、慰霊碑を興味深げに眺めています。

「そろそろ行きましょうか。お腹もすいたし」

 われわれは、次の目的地のミャンマーレストランに向かいました。


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