犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

ボージョー・アウンサン伝(2) 政界進出

2015-11-14 23:21:52 | ミャンマー

タキン党員として

 1938
年、アウンサンは、文学士号を得て卒業したあと、ウー・ヌとともにタキン党に入党した。入党後すぐ党中央執行委員会の書記長に抜擢され、油田労働者のラングーン行進(ビルマ暦1300年事件)や全産業のゼネストを指導した。ビルマ北部には英国資本の大油田があった。

 ゼネストの結果、バモオ首相の不信任決議が可決し、首相は失脚したが、それ以外に目立った成果は上げられなかった。タキン党内には、ビルマ共産党も作られ、アウンサンはタキン党書記長と兼任で、一時、共産党の書記長も務めたが、1940年ごろには、共産党とは距離を置くようになった。

 「ビルマ暦1300年事件」での挫折に活動の限界を感じたアウンサンは、下野したバモオ元首相を勧誘し、自由ブロックという反英団体を結成した。議長はバモオ、書記長はアウンサンが務めた。

バモオ博士

 ここで登場するバモオについて、少し紹介しておくと…。

 バモオは、アウンサンより20歳以上年長の政治家で、1893年生まれ。

 ビルマは1852年の第二次英緬戦争で英国の植民地になったが、バモオの父は、1885年に英国によって滅ぼされたビルマ最後の王朝、コンバウン朝の宮廷で高官を務めていた。母はビルマ人とポルトガル人の血を引く裕福な家庭の出であった。

 ラングーンの仏カトリック系セントポール学院で学び、ラングーン・カレッジ(前出、当時は2年制)を経て、インドのカルカッタ大学に転入、英文学を専攻した。卒業後、ラングーンの高校の英語教員、母校ラングーン・カレッジの英語英文学講師をしたあと、1920年、27歳のときに英国に留学。ケンブリッジ大学、グレイズ・イン法学院で学び、英国人でも難しい法廷弁護士資格を得た。さらにフランスのボルドー大学で哲学博士号を得た。31歳で帰国後、ラングーンで弁護士を開業した。

 アウンサンがラングーン大学に入る1年前の1931年、バモオは、農民の大反乱の指導者の弁護を担当した。世界恐慌後のビルマでは米価が大暴落し、農村は大打撃を受けていた。裁判の結果、被告は死刑となってしまったが、バモオはこの裁判の過程で反植民地感情と愛国心を強め、愛国的弁護士として知られるようになる。

 彼は、翌年の植民地議会に立候補して当選。ビルマは当時、英領インドの一つの州であった。ビルマきっての知識人であった彼は、ビルマ州知事によって教育担当大臣に指名され、教育制度の整備などを推進した。

 その後、ビルマでは1937年にビルマ統治法(憲法)が制定され、英領インドから分離して、直轄植民地である「英領ビルマ」となった。二院制議会が置かれ、議院内閣制がとられた。議員の3割は英国人、英系ビルマ人、インド人、カレン族が占め、残りの7割がビルマ人に割り当てられた。

 バモオは1936年に行われた選挙で、貧民ウンターヌ結社という穏健な左翼政党から出馬し、下院に当選。議会制民主主義をもとに民意に基づき富の公平な分配を目指し平等な社会を実現させようとする穏健社会主義思想をとった。

 英領ビルマの初代総督は、英国人のコックレイン。コックレインは、ヨーロッパの教養を身につけていたバモオを初代首相に指名した。

 貧民ウンターヌ結社は少数与党にすぎなかったため、連立政権を組んだが、政権内ではビルマ人同士の権力闘争が絶えなかった。また、イスラム系と仏教系の宗教対立を激しく、治安は悪化。反英的なタキン党(アウンサンが書記長)が油田労働者のストライキを組織しデモ行進をしたり、39年2月には、植民地軍により仏教僧侶を含む14人が射殺される事件などが起こって、バモオに対する不信任案が提出された。それまでの不信任案では英国人議員たちが反対に回っていたが、今回は英国人も不信任案に賛成したため不信任案が成立。バモオ政権は1年10か月で崩壊した。

 バオモをその後、一転して反英姿勢を強め、自身の失脚のきっかけを作ったアウンサンと合流し、「自由ブロック」を結成するようになったのである。

 ヨーロッパでは、1939年に第二次世界大戦が勃発していた。初戦で英国がドイツに対し劣勢に立つと、ビルマでは「英国の危機はビルマの好機」を合言葉に、反英闘争強化、植民地支配体制打倒の機運が高まった。

 バモオの後をついだウー・プ内閣は、反タキン党の姿勢を鮮明にし、英国人総督の勧めでビルマ防衛法という治安維持のための法律を制定。自由ブロック関係者の大量逮捕に乗り出した。バモオは逮捕され、アウンサンにも逮捕状が出た。

 タキン党は、武装闘争を模索するようになり、中国国民党(蒋介石)、中国共産党(毛沢東)、インド国民会議派(ガンディー、ネルーなど)と関係を結ぼうとしたが、うまくいかなかった。


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