11月8日に投票が行われたミャンマーの総選挙で、アウンサンスーチーが党首を務めるNLDが大勝し、政権交代が確実になりました。
アウンサンスーチー女史は、ミャンマー(ビルマ)建国の父、ボージョー・アウンサン(ボージョーは「将軍」の意)の娘です。アウンサン将軍について、少し前に『ビルマ独立への道―バモオ博士とアウンサン将軍』(根本敬著、2012年彩流社刊)という本を読みましたので、その本に沿ってアウンサンの人となりをご紹介します。
出生
アウンサン(ビルマ人の名前には姓がない)は、1915年2月、ビルマ中央部に位置するマグウェー県で出生した。
父は農民出身の弁護士。母は在地地主の娘。6人兄弟の末っ子であった。
8歳のときに僧院の経営する学校(日本でいう寺子屋)に入り、13歳からは私立の国民学校へ転校した。
英国植民地下の官立学校は、英語を教授言語(授業で使う言語)にしているところが多かったが、アウンサンの通った国民学校では、英語の科目以外、ビルマ語を使って教え、教師には愛国心の強いナショナリストが多かった。
学生運動
アウンサンは17歳で卒業試験に合格し、4年制ラングーン大学に進学した。
ラングーン大学は1920年創設された。キリスト教系の2年制ジャドソン・カレッジとインドカルカッタ大学の分校である、やはり2年制のラングーン・カレッジが統合され、男女共学の4年制大学となったもの。
当初から、入学定員の少なさ、学費の高さ、全寮制であること、カリキュラムが植民地官吏養成のための科目に偏っていたことなどに学生の不満が高く、開校後すぐに学生のストライキが行われた。
アウンサンが入学したのは1932年。このとき、1929年の世界恐慌の影響でビルマでは農村が疲弊し、ラングーン大学学生同盟でも政治的な討論会が頻繁に行われていた。
アウンサンは英文学、近代史、政治学などを選択したが、国民学校時代の教授言語がビルマ語だったため、他の学生に比べ、英語で苦労したという。3年生の時、アウンサンはラングーン大学学生同盟の執行委員になった。議長は、後にビルマ首相になるウー・ヌであった。アウンサンは広報担当として、機関紙の編集責任者を務めた。
1936年の学年末に、議長ウー・ヌが討論会で英国人学長のスロスを批判したため、退学処分になった。アウンサンは緊急学生集会を開き、学年末試験をボイコット。シュエタゴンパゴダ(ラングーン最大の寺院)で抗議集会を開いてデモ行進を行うとともに、ラングーン大学でストライキを決行した。ストライキには、全学の半数近くの学生が参加し、2か月半続いた。
アウンサンには3年間の停学処分が下されたが、ビルマ最高学府のストライキは全国民の関心を集め、植民地議会には大学ストライキ調停委員会が設置された。結局、学生側の要求の多くが受け入れられ、これによりアウンサンの名声は一気に高まった。
ストライキ中にラングーン大学学生同盟を核にして、高校まで含む学生の全国組織、全ビルマ学生同盟が結成され、アウンサンが議長となった。全ビルマ学生同盟は、反英の愛国者団体、タキン党とも関係を深めた。
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