『多崎つくる』―セクシュアル・マイノリティの物語①
『多崎つくる』―セクシュアル・マイノリティの物語②
つくるは、5人の親友グループの中に、男女の関係を持ち込まないように、という暗黙の前提が存在し、みなそれを守っていた、それでグループの中で恋愛関係は生まれなかった、と思っていました。
ところが、アオ、アカ、クロの話を聞くと、実際は、そうではありませんでした。
当時の5人グループは、アオの表現を借りれば、「自分(アオ)は脳天気なスポーツマン、アカは頭脳明晰なインテリ、シロは可憐な乙女、クロは機転の利くコメディアン、そしてつくるは育ちのいいハンサムボーイ」でした。
思春期の男女5人が集まれば、そこになんらかの恋愛感情が生まれるのは自然なことです。
つくるの父は仕事一筋で、つくるにはあまり関わらず、母と2人の姉の間で育ちました。その影響か、つくるは精神的成長、特に性的意識の発達が遅いほうだったのかもしれません。一方、つくるが気づかないところで、他の仲間たちはそれぞれの恋愛感情をもっていました。
まず、アオはクロのことが好きでした。明るいスポーツマンのアオにとって、美人だけれども内気なシロより、社交的なクロのほうが好みだったのでしょう。
つくるが再会した時、アオには妻子がいました。30歳のときに結婚し、今は3歳の男の子、奥さんのお腹の中に女児がいるとのことです。一見、幸せな家庭を築いているように見えますが、アオ自身は、そこに一抹の空虚さを感じています。16年前の親友との関係のほうが、今の家族よりも親密であった、と。そして、当時クロに恋愛感情を抱いていたことを、つくるに明かします。今なお、遠くフィンランドにいるクロへの思いを断ち切れないようです。別れ際、つくるに託します。「もしフィンランドに行くなら、クロによろしく」と。
アカはどうだったのでしょうか。
アカは、つくるに会ったとき、当時、シロのことが好きだったとか、クロのことが好きだったとか、はっきりしたことは言いません。アカは、シロが事件に巻き込まれて非業の最期を遂げる半年前、浜松でシロに会います。そして、シロがかつてのようにきれいではなくなっていたことに気づき、痛々しく感じます。「十代の頃のシロがどんなに魅力的だったか、それはぼくの心に深く刻まれている」。この言葉から類推するに、十代の頃、アカはシロに惹かれ、憧れをもっていたことが想像できます。
アカは、シロが「つくるにレイプされた」と嘘をついた理由について、「シロは密かにおまえのことが好きだったのかもしれない。だから一人で東京に出て行ったおまえに失望し、怒りを覚えていたのかもしれない。あるいはおまえに嫉妬していたのかもしれない。彼女自身、この街から自由になりたかったのかもしれない。…」と、自らの推測を述べます。これは、裏を返せば、自分が好きだったシロは、つくるのことが好きで、それに対してつくるにいささかの嫉妬を感じていたとも解釈できます。
アカには結婚歴があります。27歳のとき結婚し、1年半で離婚しました。そして、離婚後に、むかし憧れていたシロに会い、かつての魅力を、そして生命力さえも失っていたシロを見て、幻滅します。
最後に、アカはつくるに「いままで誰にも話したことはないのだが」と前置きして、あることを打ち明けます。
「実際に結婚してみるまで、自分が結婚に向いていないということが、おれにはわからなかった。要するに、男女のあいだの肉体的な関係がおれには向いていないということだよ。…おれは女性に対してうまく欲望を持つことができない。まったく持てないわけじゃないが、それよりは男との方がうまくいく」
離婚後、シロと再会して、シロへの魅力も感じられなくなったことを確認した時点で、自分のホモセクシュアルという性的指向を確信したのでしょう。
そして、名古屋という地方都市で、同性愛者として「正直に」生きていくことの困難さを吐露します。
「おれたちは人生の過程で真の自分を少しずつ発見していく。そして発見すればするほど自分を喪失していく。…」
アカはこのパラドックスの中で悩んでいたのです。
では、クロはどうでしょうか。
つくるがクロに「なぜシロのレイプの犯人が自分でなければならなかったのか」と問いかけたとき、クロは次のように答えます。
「ひとつの理由として考えられるのは、私が君を好きだったということかな」
クロは、つくるのことがずっと好きでした。異性として強く心を惹かれ、恋をしていた。そのことは隠していたから、アオもアカも知らなかっただろう。しかし、同性のシロは気づいていた。
「僕はまったく気がつかなかった」
「それは君が馬鹿だからよ」
クロは、つくるにだけはサインを出していた。しかし、鈍感なつくるはそれに気づかなかった。そして、「つくるはきっとシロのことが好きなんだろう」と思っていたのです。自分より美人のシロに惹かれるのは無理もない、と。
そして、シロは、クロがつくるを好きであることに気づき、つくるに対して嫉妬していたのではないか。これがクロの推測です。
シロが「つくるにレイプされた」と言い出したとき、クロはシロを護るために、シロの言うことが嘘だと知りつつ、信じたふりをして、自分が愛するつくるを切り捨てる、という究極の選択をしました。
おそらくクロは、シロに対しても、たんなる親友という関係を越えた思い、すなわち同性愛的な感情を持っていたものと思われます。クロは、いわゆるバイセクシュアル(両性愛者)なのです。
つくるに対する異性愛ではなく、シロに対する同性愛を選択したクロでしたが、その思いは成就することがありませんでした。
なぜなら、シロはアセクシュアル(無性愛者)だったからです。
つくるが「シロは僕のことが好きだったのか」とクロに聞いたとき、クロは即座に「それはない」と答えます。
「シロはだれに対しても異性としての関心を持ったりはしなかった」
「同性愛だったということ?」
「いや、あの子にはその気はまったくなかったよ。間違いなく。シロは昔から一貫して性的なものごとに対する嫌悪感をとても強く持っていた。むしろ恐怖心と言ってもいいかもしれない。(私がその手の話をすると)シロはすぐに話題を変えた」
あるいはクロは、シロに対し同性愛的な誘いを試みたことがあるのかもしれません。しかし、シロは誘いに乗ってこなかった。
クロは、シロの面倒を見ることに疲れ切ったとき、フィンランド人の異性を選び、結婚します。
シロが実際にどのようなことを考えていたのか、すでに亡くなっているので証言を得ることはできません。シロが自身の性的傾向をいつ自覚したのかはわかりませんが、初めて男性と(おそらくは無理やりに)関係を結ばされ、処女を失ったとき、自分が「アセクシュアル」であることをはっきりと知ったことでしょう。そのときの極度の恐怖と嫌悪から錯乱状態に陥り、ある妄想、つくるにレイプされたという妄想にかられ、やがてその妄想は、シロの中で「事実」として確定していったものと思われます。
なぜ、相手がつくるだったのか。それは、謎です。クロの推測がその一つの理由かもしれないし、アカの推測も否定はできません。シロは、つくるに対し、性的な関心はないけれど、友だちとして好きだった、それなのにつくるは一人で東京に行ってしまい、「裏切られた」と思った、というものです。
シロは、流産したあと、拒食症になりましたが、これは生理を止めるためでした。シロは、二度と妊娠したくなかったし、子宮もとってしまいたいぐらいだった。女性であることを辞めたがっていたのです。
そして、クロを含め周囲の人に対する関心を急速に失っていくなか、唯一、子供たちに音楽を教えることへの情熱だけは失わなかったそうです。性的に未成熟な子供に対してだけは。
アカは、シロの死ぬ半年前の様子、生命力を失いつつあったシロについて、こう言います。
「あいつは肉体的に殺害される前から、ある意味では生命を奪われていたんだ」
シロの殺害事件は、未解決のままです。衣服の紐らしきもので首を絞められていましたが、物盗りの犯行ではなく、暴行された形跡もなかった。部屋は荒らされておらず、同じ階の住人は不審な物音もきかなかった。抵抗した様子もなかった。
「あの子には悪霊がとりついていた。…悪霊はじわじわとあの子を追い詰めて行った。そう考える以外にいろんなことの説明がつかないんだ。君のことにしても、拒食症のことにしても、浜松のことにしても。…それは悪霊だった。あるいは悪霊に近い何かだった」
これがクロの結論でした。
ヘテロセクシュアル(異性愛者)だったアオ、最初はヘテロと思っていたが後にホモセクシュアル(同性愛者)であることを自覚したアカ、同性にも異性にも愛することのできるバイセクシュアル(両性愛者)のクロ、そしてアセクシュアル(無性愛者)のシロ…。
高校時代の4人は、その内面において、自覚的に、あるいは無自覚に、さまざまな性的傾向を持ち、それを顕在化させたり、抑圧したりしていたのです。
では、当のつくる自身の性的指向はどのようなものだったのでしょうか。
(つづく)
『多崎つくる』―セクシュアル・マイノリティの物語②
つくるは、5人の親友グループの中に、男女の関係を持ち込まないように、という暗黙の前提が存在し、みなそれを守っていた、それでグループの中で恋愛関係は生まれなかった、と思っていました。
ところが、アオ、アカ、クロの話を聞くと、実際は、そうではありませんでした。
当時の5人グループは、アオの表現を借りれば、「自分(アオ)は脳天気なスポーツマン、アカは頭脳明晰なインテリ、シロは可憐な乙女、クロは機転の利くコメディアン、そしてつくるは育ちのいいハンサムボーイ」でした。
思春期の男女5人が集まれば、そこになんらかの恋愛感情が生まれるのは自然なことです。
つくるの父は仕事一筋で、つくるにはあまり関わらず、母と2人の姉の間で育ちました。その影響か、つくるは精神的成長、特に性的意識の発達が遅いほうだったのかもしれません。一方、つくるが気づかないところで、他の仲間たちはそれぞれの恋愛感情をもっていました。
まず、アオはクロのことが好きでした。明るいスポーツマンのアオにとって、美人だけれども内気なシロより、社交的なクロのほうが好みだったのでしょう。
つくるが再会した時、アオには妻子がいました。30歳のときに結婚し、今は3歳の男の子、奥さんのお腹の中に女児がいるとのことです。一見、幸せな家庭を築いているように見えますが、アオ自身は、そこに一抹の空虚さを感じています。16年前の親友との関係のほうが、今の家族よりも親密であった、と。そして、当時クロに恋愛感情を抱いていたことを、つくるに明かします。今なお、遠くフィンランドにいるクロへの思いを断ち切れないようです。別れ際、つくるに託します。「もしフィンランドに行くなら、クロによろしく」と。
アカはどうだったのでしょうか。
アカは、つくるに会ったとき、当時、シロのことが好きだったとか、クロのことが好きだったとか、はっきりしたことは言いません。アカは、シロが事件に巻き込まれて非業の最期を遂げる半年前、浜松でシロに会います。そして、シロがかつてのようにきれいではなくなっていたことに気づき、痛々しく感じます。「十代の頃のシロがどんなに魅力的だったか、それはぼくの心に深く刻まれている」。この言葉から類推するに、十代の頃、アカはシロに惹かれ、憧れをもっていたことが想像できます。
アカは、シロが「つくるにレイプされた」と嘘をついた理由について、「シロは密かにおまえのことが好きだったのかもしれない。だから一人で東京に出て行ったおまえに失望し、怒りを覚えていたのかもしれない。あるいはおまえに嫉妬していたのかもしれない。彼女自身、この街から自由になりたかったのかもしれない。…」と、自らの推測を述べます。これは、裏を返せば、自分が好きだったシロは、つくるのことが好きで、それに対してつくるにいささかの嫉妬を感じていたとも解釈できます。
アカには結婚歴があります。27歳のとき結婚し、1年半で離婚しました。そして、離婚後に、むかし憧れていたシロに会い、かつての魅力を、そして生命力さえも失っていたシロを見て、幻滅します。
最後に、アカはつくるに「いままで誰にも話したことはないのだが」と前置きして、あることを打ち明けます。
「実際に結婚してみるまで、自分が結婚に向いていないということが、おれにはわからなかった。要するに、男女のあいだの肉体的な関係がおれには向いていないということだよ。…おれは女性に対してうまく欲望を持つことができない。まったく持てないわけじゃないが、それよりは男との方がうまくいく」
離婚後、シロと再会して、シロへの魅力も感じられなくなったことを確認した時点で、自分のホモセクシュアルという性的指向を確信したのでしょう。
そして、名古屋という地方都市で、同性愛者として「正直に」生きていくことの困難さを吐露します。
「おれたちは人生の過程で真の自分を少しずつ発見していく。そして発見すればするほど自分を喪失していく。…」
アカはこのパラドックスの中で悩んでいたのです。
では、クロはどうでしょうか。
つくるがクロに「なぜシロのレイプの犯人が自分でなければならなかったのか」と問いかけたとき、クロは次のように答えます。
「ひとつの理由として考えられるのは、私が君を好きだったということかな」
クロは、つくるのことがずっと好きでした。異性として強く心を惹かれ、恋をしていた。そのことは隠していたから、アオもアカも知らなかっただろう。しかし、同性のシロは気づいていた。
「僕はまったく気がつかなかった」
「それは君が馬鹿だからよ」
クロは、つくるにだけはサインを出していた。しかし、鈍感なつくるはそれに気づかなかった。そして、「つくるはきっとシロのことが好きなんだろう」と思っていたのです。自分より美人のシロに惹かれるのは無理もない、と。
そして、シロは、クロがつくるを好きであることに気づき、つくるに対して嫉妬していたのではないか。これがクロの推測です。
シロが「つくるにレイプされた」と言い出したとき、クロはシロを護るために、シロの言うことが嘘だと知りつつ、信じたふりをして、自分が愛するつくるを切り捨てる、という究極の選択をしました。
おそらくクロは、シロに対しても、たんなる親友という関係を越えた思い、すなわち同性愛的な感情を持っていたものと思われます。クロは、いわゆるバイセクシュアル(両性愛者)なのです。
つくるに対する異性愛ではなく、シロに対する同性愛を選択したクロでしたが、その思いは成就することがありませんでした。
なぜなら、シロはアセクシュアル(無性愛者)だったからです。
つくるが「シロは僕のことが好きだったのか」とクロに聞いたとき、クロは即座に「それはない」と答えます。
「シロはだれに対しても異性としての関心を持ったりはしなかった」
「同性愛だったということ?」
「いや、あの子にはその気はまったくなかったよ。間違いなく。シロは昔から一貫して性的なものごとに対する嫌悪感をとても強く持っていた。むしろ恐怖心と言ってもいいかもしれない。(私がその手の話をすると)シロはすぐに話題を変えた」
あるいはクロは、シロに対し同性愛的な誘いを試みたことがあるのかもしれません。しかし、シロは誘いに乗ってこなかった。
クロは、シロの面倒を見ることに疲れ切ったとき、フィンランド人の異性を選び、結婚します。
シロが実際にどのようなことを考えていたのか、すでに亡くなっているので証言を得ることはできません。シロが自身の性的傾向をいつ自覚したのかはわかりませんが、初めて男性と(おそらくは無理やりに)関係を結ばされ、処女を失ったとき、自分が「アセクシュアル」であることをはっきりと知ったことでしょう。そのときの極度の恐怖と嫌悪から錯乱状態に陥り、ある妄想、つくるにレイプされたという妄想にかられ、やがてその妄想は、シロの中で「事実」として確定していったものと思われます。
なぜ、相手がつくるだったのか。それは、謎です。クロの推測がその一つの理由かもしれないし、アカの推測も否定はできません。シロは、つくるに対し、性的な関心はないけれど、友だちとして好きだった、それなのにつくるは一人で東京に行ってしまい、「裏切られた」と思った、というものです。
シロは、流産したあと、拒食症になりましたが、これは生理を止めるためでした。シロは、二度と妊娠したくなかったし、子宮もとってしまいたいぐらいだった。女性であることを辞めたがっていたのです。
そして、クロを含め周囲の人に対する関心を急速に失っていくなか、唯一、子供たちに音楽を教えることへの情熱だけは失わなかったそうです。性的に未成熟な子供に対してだけは。
アカは、シロの死ぬ半年前の様子、生命力を失いつつあったシロについて、こう言います。
「あいつは肉体的に殺害される前から、ある意味では生命を奪われていたんだ」
シロの殺害事件は、未解決のままです。衣服の紐らしきもので首を絞められていましたが、物盗りの犯行ではなく、暴行された形跡もなかった。部屋は荒らされておらず、同じ階の住人は不審な物音もきかなかった。抵抗した様子もなかった。
「あの子には悪霊がとりついていた。…悪霊はじわじわとあの子を追い詰めて行った。そう考える以外にいろんなことの説明がつかないんだ。君のことにしても、拒食症のことにしても、浜松のことにしても。…それは悪霊だった。あるいは悪霊に近い何かだった」
これがクロの結論でした。
ヘテロセクシュアル(異性愛者)だったアオ、最初はヘテロと思っていたが後にホモセクシュアル(同性愛者)であることを自覚したアカ、同性にも異性にも愛することのできるバイセクシュアル(両性愛者)のクロ、そしてアセクシュアル(無性愛者)のシロ…。
高校時代の4人は、その内面において、自覚的に、あるいは無自覚に、さまざまな性的傾向を持ち、それを顕在化させたり、抑圧したりしていたのです。
では、当のつくる自身の性的指向はどのようなものだったのでしょうか。
(つづく)
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