年末に兄(55歳)と飲んでいて、子供の頃の話に花が咲きました。
昔の話というのは同年配の人達と話していても、意外に盛り上がらない。というのは、それぞれ育った地方や家庭環境が違うので、同時代を生きていても記憶に残っていることが違うからですね。たとえば妻は歳が同じだけれども、島根県育ち。私は東京育ちですから、話が合わない。
子供の生活圏というのは非常に限られていて、世間が極端に狭い。いきおい、子供の頃の思い出というのは、当時の日本というよりは、ある地域、ある町、ある家庭の思い出にならざるをえない。
その点、兄弟の場合は、5歳の違いがあるとはいえ、生活環境がまったく同じですから共通の思い出も多く、話が盛り上がります。
私たちが生まれたのは昭和30年代前半から半ば。西暦で言えば1950年代後半から60年代初めです。当時、日本は高度経済成長のただ中にありました。
1964年のオリンピックに向けて、新幹線や高速道路の建設が進み、「三種の神器」と呼ばれた電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビが普及しつつあった。
私の記憶では、物心ついたころに洗濯機も冷蔵庫もテレビもありました。しかし兄が生まれたときは、電話はなく、緊急の際は近所の家から呼び出してもらっていたそうです。そして風呂もなかったので銭湯通い。私が生まれたころに電話を引き、ガス風呂を設置したとのことです。
電話はもちろん黒電話で文字盤を回すタイプ。テレビもリモコンなどあるはずがなく、「チャンネルを回す」という言葉が生きていました。
現在、このあたり(東京都大田区)は住宅街で畑などなくなってしまいましたが、50年前は畑だらけ。人糞を保管・熟成させている「肥溜め」も周囲に臭いを放っていました。
トイレは汲み取り式。上下水道も普及していないため、家庭で使う水は庭に掘った井戸から電気モーターでくみ上げていました。家の前は舗装されておらず、道の脇には「どぶ」があって家庭の排水が流れ込んでいました。
祖父は勤め人だったので洋服を来ていましたが、祖母は日常的に着物を着ており、銀行員の父も休日は浴衣やどてら姿でした。
物価も安かった。1965年を基準にすると、その後の25年で消費者物価は4倍になります(ただし、1990年から今までは横ばい)。
父は酒飲みで平日は酒に酔って帰ってくることが多かった。日曜、休日はずっと寝ているか起き出してからも昼間から安ウイスキーを飲んでいる。日曜日に遊びに行ったり外食したりという記憶はほとんどありませんが、数少ない外食の記憶は歩いて行ける多摩川にボートを乗りに行き、川辺にあったショウライソウ(松籟荘、こんな漢字だったことを調べて初めて知りました)というレストランで「洋食」を食べたこと。
記憶に残っているメニューはスパゲティーナポリタン、同ミートソース、クリームソーダ。
「ナポリタンって最近、ないよね」
調べてみると、ナポリタンはイタリアのナポリとはまるっきり関係がなく、米軍兵士が食べていたケチャップ和えパスタを見て、日本人のコックが開発したとのこと。
「ミートソースも呼び方が変わった。今はボロネーゼ」
「クリームソーダをクリソって言ったのはもっとあとだっけ」
兄とこんなことを話していると、しだいに話は食べ物の話題に。
「ラーメンも昔とは変わったね。昔は鶏ガラスープで、なると(鳴門巻き)が入ってた」
「どんぶりも中華の渦巻き模様入りだったね」
「具はなると、しなちく、チャーシュー、ほうれん草…」
「海苔や煮卵が入りだしたのは後でしょう」
「とんこつや魚だしも少なかった」
「だいたい、ラーメンに800円も1000円も出す気しないよね」
我が家におけるラーメンとは、来客があったときに近くの中華料理屋から「てんやもの」をとって子供もご相伴にあずかるとき。家族だけで食べるのは、インスタントラーメンでした。
「うちはチキンラーメンはあまり食べなかったでしょう?」
「うん、サッポロ一番か、チャルメラだった」
調べてみると、日清チキンラーメンの発売は1958年、サッポロ一番しょうゆ味と明星チャルメラがともに1966年でした。カップヌードルの登場(1971年)も衝撃的だったけれど、高いのであまり買ってもらえなかった(袋面の25円に対し100円)。
ラーメンの専門店が出来たのはいつの頃でしょうか。「札幌ラーメン」というチェーン点で味噌ラーメンとか塩バタコーンとか食べたのがいちばん古い思い出です。とんこつの初体験は大学生になってから。(これ、すべて東京での話です)
その後、話はギョーザ、カレーライス、駄菓子屋などに移っていくのですが、長くなるので機会があったらまた書きます。
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昔の話を読ませていただいて、犬鍋さんとは同年代と分かりました。古い話では地域差があるのもよく分かります。
子供の頃(幼稚園の前くらい)の記憶では、醤油は一升瓶を持って買いに行き、豆腐は鍋を持ってだったと。また、卵はおがくずが敷いてある平台からザルにとって買ってた記憶が残ってます。
さて、時節柄タイトルの話なのですが、皆さんの成人式(自治体のでも勤めてからの職場のでも構いませんが)って学年で受けましたか、暦年で受けましたか。
わたしは、1月下旬生まれなのですが、成人式は暦年だったため1年遅れの記憶があります。わたしの受けた成人式がちょうど過渡期で、1月生まれから次の学年全部が対象となったはずです。
子供の頃、家のお勝手口(死語?)によく御用聞きが来ていました。
酒屋、豆腐屋、屑屋、研ぎ屋(?)…
私はスポックさんの少し後輩のようです。
早生まれ(成人の日以降)なのに、同学年の友達といっしょに成人式に出ましたから。
年齢は犬鍋さんとほとんど一緒ですが、読んでみると我が家の状況はお兄さんの記憶に近いようです。
母は時々、着物を着てました。
父は冬は丹前でした。
火鉢がありましたが、ほとんど使ってませんでした。但し、練炭は、コタツや練炭コンロに使ってました。
電話は物心ついてから導入しました。今でも番号は覚えています。
お風呂もない時代も覚えてます。風呂屋に行くと刺青をした人がたくさんいましたが、当時は大工さんなどは入れていたようです。近所の人もしてました。うんと小さい頃はたらいに入ってました。
井戸は電気式ポンプの前は手で汲み上げるものでした。錆が出るので、出口を手拭で漉してました。
くず屋が、リヤカーを引いて、チリンチリンと鐘を鳴らして「くずや~おはらい!」と言っていた記憶があります。
近所の酒屋の御用聞きが、ちり紙交換を始めるので辞めたというのも覚えてます。
そんな当時の我が家(借家)も今では駐車場になって、当時の面影はありません。
湯たんぽ、豆炭行火(まめたんあんか)などいうものも使っていました。
サッシではなく、すきま風の吹く伝統家屋だったので、一酸化炭素中毒を免れたのでしょう。
石焼き芋とチャルメラもなつかしい。