ソウル市長・朴元淳氏が自ら命を絶った日、韓国で一人の英雄が亡くなりました。
白善燁(ペク・ソニョプ)氏。享年100歳(韓国式の数え年)ですから、大往生です。韓国では、亡くなった人の名前を赤で書く習慣があります。
白善燁氏は韓国の軍人。朝鮮戦争では、北朝鮮の怒涛の南侵により韓国軍が敗走を続ける中、多富洞で北朝鮮を撃破。釜山陥落、ひいては朝鮮半島の赤化(共産化)を防ぎました。韓国で「救国の英雄」と呼ばれる所以です。
本ブログでは以前、白善燁氏の自伝『若き将軍の朝鮮戦争-白善燁将軍回顧録』(草思社、2000年)を紹介したことがあります(リンク)。
今、その本が手元にないので、ウィキペディアなどから白将軍の経歴をまとめると…
白将軍は1920年生まれ。植民地治下の朝鮮で満州国軍官学校を卒業後、間島で抗日ゲリラ討伐、八路軍掃討作戦などに従事。満州国軍中尉で終戦を迎えました。46年、南朝鮮国防警備隊(韓国軍の前身)に入隊し、50年、第1師団長に就任。
同年6月25日に、北朝鮮軍が突如南侵し、朝鮮戦争が勃発すると、白将軍は韓国を防衛するために獅子奮迅の働きをします。
1950年8月、韓国軍は大邱と釜山に追い詰められていました。
白将軍は、洛東江沿岸に釜山橋頭堡を築き、アメリカ第27連隊と共同して防衛戦を繰り広げます。白将軍は、自身マラリアの高熱に苦しみながらも退却してくる韓国兵士に訓示を与え、みずから先頭を切って突撃を行って戦況を挽回したそうです。
そのときの訓示をウィキペディアから引用します。
連日連夜の激闘は誠にご苦労で感謝の言葉もない。よく今まで頑張ってくれた。だがここで我々が負ければ、我々は祖国を失うことになるのだ。我々が多富洞を失えば大邱が持たず、大邱を失えば釜山の失陥は目に見えている。そうなればもう我が民族の行くべき所はない。
だから今、祖国の存亡が多富洞の成否に掛かっているのだ。我々にはもう退がる所はないのだ。だから死んでもここを守らなければならないのだ。しかも、はるばる地球の裏側から我々を助けに来てくれた米軍が、我々を信じて谷底で戦っているではないか。信頼してくれている友軍を裏切ることが韓国人にできようか。
いまから私が先頭に立って突撃し陣地を奪回する。貴官らは私の後ろに続け。もし私が退がるようなことがあれば、誰でも私を撃て。さあ行こう! 最終弾とともに突入するのだ。
— 白善燁、1950年8月21日
(田中恒夫 『朝鮮戦争・多富洞の戦い』 かや書房、1998年)
これは、朝鮮戦争中に師団長が突撃をした唯一の場面だったのだそうです。
この戦いでの勝利で持ちこたえた韓国軍は、9月に仁川に上陸した国連軍とともに反攻に転じ、ソウルを奪還、一時は平壌を占領します。もし、中国共産党の義勇軍の「人海戦術」がなければ、朝鮮半島は韓国によって統一されていたことでしょう。
白善燁氏は1953年、32歳の若さで韓国陸軍初の大将に昇進。
朝鮮戦争の休戦後は、韓国軍の近代化に尽くし、1960に退役。その後は外交官として中華民国、フランス、中近東各国、カナダ大使を歴任、帰国後は朴正煕大統領政権下で交通部長官に就任し、ソウルの地下鉄建設、また1970年のよど号ハイジャック事件の解決に当たりました。盧泰愚政権時代には、戦争記念館の建設に協力したとのことです。
しかし、「救国の英雄」の晩年は不遇でした。植民地治下の満州で、抗日ゲリラ討伐の任に当たっていたことを咎められ、「親日派」に分類されてしまったのですね。
これは、亡くなったあとの処遇にも表れています。
同じ日に亡くなった朴元淳ソウル市長の場合は、セクハラという不名誉な疑惑があるというのに、盛大なソウル市特別葬が執り行われ、市庁前広場に焼香所が設置されたの対し、白善燁氏は陸軍葬。国による焼香所の設置は行われず、見かねた市民団体が急遽焼香所を設置したそうです。
文在寅大統領は、白善燁氏の葬儀に弔問には訪れず、弔花をおくったのみ。
これについて、野党未来統合党の河泰慶(ハ・テギョン)議員は、SNSで、
「文大統領が大韓民国の大統領になれたのは、白将軍が大韓民国を守ってくれたため」、
「大韓民国の大統領は、白将軍に返さなければならない借りがある」、
「共に民主党の一部では、大韓民国の英雄を親日派と罵倒し国民統合を阻害している。大統領はこうした偏狭な徒党的思考を乗り越えねばならない」、
などと書き、文大統領自ら、弔問に訪れることを促しました。(リンク)
文在寅大統領が生まれたのは1953年1月。その年の7月に朝鮮戦争の休戦協定が結ばれたので、戦争のさなかです。
文大統領の両親と姉は、朝鮮戦争当時、北朝鮮の咸鏡南道にいましたが、白善燁の活躍により、韓国軍が反攻し、北朝鮮にまで攻め入った1950年12月、米国の貨物船で脱北し、南に逃れることができました。
河泰慶の
「文大統領が大韓民国の大統領になれたのは、白将軍が大韓民国を守ってくれたため」
「大韓民国の大統領は、白将軍に返さなければならない借りがある」
という発言は、そのあたりのことも指しているのでしょう。
文大統領が忌み嫌う朴正煕大統領に重用されていた点も気に入らないのかもしれません。
朴槿恵前大統領に対する厳罰もそうですが、文大統領はいい加減、「復讐政治」から脱却してほしいものです。
白善燁(ペク・ソニョプ)氏。享年100歳(韓国式の数え年)ですから、大往生です。韓国では、亡くなった人の名前を赤で書く習慣があります。
白善燁氏は韓国の軍人。朝鮮戦争では、北朝鮮の怒涛の南侵により韓国軍が敗走を続ける中、多富洞で北朝鮮を撃破。釜山陥落、ひいては朝鮮半島の赤化(共産化)を防ぎました。韓国で「救国の英雄」と呼ばれる所以です。
本ブログでは以前、白善燁氏の自伝『若き将軍の朝鮮戦争-白善燁将軍回顧録』(草思社、2000年)を紹介したことがあります(リンク)。
今、その本が手元にないので、ウィキペディアなどから白将軍の経歴をまとめると…
白将軍は1920年生まれ。植民地治下の朝鮮で満州国軍官学校を卒業後、間島で抗日ゲリラ討伐、八路軍掃討作戦などに従事。満州国軍中尉で終戦を迎えました。46年、南朝鮮国防警備隊(韓国軍の前身)に入隊し、50年、第1師団長に就任。
同年6月25日に、北朝鮮軍が突如南侵し、朝鮮戦争が勃発すると、白将軍は韓国を防衛するために獅子奮迅の働きをします。
1950年8月、韓国軍は大邱と釜山に追い詰められていました。
白将軍は、洛東江沿岸に釜山橋頭堡を築き、アメリカ第27連隊と共同して防衛戦を繰り広げます。白将軍は、自身マラリアの高熱に苦しみながらも退却してくる韓国兵士に訓示を与え、みずから先頭を切って突撃を行って戦況を挽回したそうです。
そのときの訓示をウィキペディアから引用します。
連日連夜の激闘は誠にご苦労で感謝の言葉もない。よく今まで頑張ってくれた。だがここで我々が負ければ、我々は祖国を失うことになるのだ。我々が多富洞を失えば大邱が持たず、大邱を失えば釜山の失陥は目に見えている。そうなればもう我が民族の行くべき所はない。
だから今、祖国の存亡が多富洞の成否に掛かっているのだ。我々にはもう退がる所はないのだ。だから死んでもここを守らなければならないのだ。しかも、はるばる地球の裏側から我々を助けに来てくれた米軍が、我々を信じて谷底で戦っているではないか。信頼してくれている友軍を裏切ることが韓国人にできようか。
いまから私が先頭に立って突撃し陣地を奪回する。貴官らは私の後ろに続け。もし私が退がるようなことがあれば、誰でも私を撃て。さあ行こう! 最終弾とともに突入するのだ。
— 白善燁、1950年8月21日
(田中恒夫 『朝鮮戦争・多富洞の戦い』 かや書房、1998年)
これは、朝鮮戦争中に師団長が突撃をした唯一の場面だったのだそうです。
この戦いでの勝利で持ちこたえた韓国軍は、9月に仁川に上陸した国連軍とともに反攻に転じ、ソウルを奪還、一時は平壌を占領します。もし、中国共産党の義勇軍の「人海戦術」がなければ、朝鮮半島は韓国によって統一されていたことでしょう。
白善燁氏は1953年、32歳の若さで韓国陸軍初の大将に昇進。
朝鮮戦争の休戦後は、韓国軍の近代化に尽くし、1960に退役。その後は外交官として中華民国、フランス、中近東各国、カナダ大使を歴任、帰国後は朴正煕大統領政権下で交通部長官に就任し、ソウルの地下鉄建設、また1970年のよど号ハイジャック事件の解決に当たりました。盧泰愚政権時代には、戦争記念館の建設に協力したとのことです。
しかし、「救国の英雄」の晩年は不遇でした。植民地治下の満州で、抗日ゲリラ討伐の任に当たっていたことを咎められ、「親日派」に分類されてしまったのですね。
これは、亡くなったあとの処遇にも表れています。
同じ日に亡くなった朴元淳ソウル市長の場合は、セクハラという不名誉な疑惑があるというのに、盛大なソウル市特別葬が執り行われ、市庁前広場に焼香所が設置されたの対し、白善燁氏は陸軍葬。国による焼香所の設置は行われず、見かねた市民団体が急遽焼香所を設置したそうです。
文在寅大統領は、白善燁氏の葬儀に弔問には訪れず、弔花をおくったのみ。
これについて、野党未来統合党の河泰慶(ハ・テギョン)議員は、SNSで、
「文大統領が大韓民国の大統領になれたのは、白将軍が大韓民国を守ってくれたため」、
「大韓民国の大統領は、白将軍に返さなければならない借りがある」、
「共に民主党の一部では、大韓民国の英雄を親日派と罵倒し国民統合を阻害している。大統領はこうした偏狭な徒党的思考を乗り越えねばならない」、
などと書き、文大統領自ら、弔問に訪れることを促しました。(リンク)
文在寅大統領が生まれたのは1953年1月。その年の7月に朝鮮戦争の休戦協定が結ばれたので、戦争のさなかです。
文大統領の両親と姉は、朝鮮戦争当時、北朝鮮の咸鏡南道にいましたが、白善燁の活躍により、韓国軍が反攻し、北朝鮮にまで攻め入った1950年12月、米国の貨物船で脱北し、南に逃れることができました。
河泰慶の
「文大統領が大韓民国の大統領になれたのは、白将軍が大韓民国を守ってくれたため」
「大韓民国の大統領は、白将軍に返さなければならない借りがある」
という発言は、そのあたりのことも指しているのでしょう。
文大統領が忌み嫌う朴正煕大統領に重用されていた点も気に入らないのかもしれません。
朴槿恵前大統領に対する厳罰もそうですが、文大統領はいい加減、「復讐政治」から脱却してほしいものです。
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