日本語と韓国語についての記事に対するコメントに、埴原和郎の名前が出てきたので、日本人の起源に関する有名な学説をご紹介します。
「100万人渡来説」というのは,形質人類学者、埴原和郎(故人)が1987年に発表した説です。
人口学の推計によると,縄文時代の後半は人口が減少し,末期の人口は7万5千。ところが,約一千年後,7世紀初めの古墳時代の人口は540万と推計される。この約千年間の人口増加は,農耕初期段階としては異常に高い増加率を示している。これを説明するための説として提唱されました。
この増加は自然増では説明できない。大陸からかなりの数の人の流入があったのではないか。
計算の基礎となる数字をかえて何種類かの計算が示されていますが,渡来人がもっとも多いと仮定した場合は,なんと150万人,もっとも少ない場合でも9万4千が渡ってきたという推測がなりたちます。この数は,縄文末期人口と比較してかなり大規模なものです。
これまで,現代の日本人はルーツは弥生時代の日本人であり,その弥生時代の日本人(弥生人)は,日本列島に長く居住していた縄文人が小進化を遂げたものだ,という説が支配的でした。
埴原説が発表された当時、「100万人渡来説」として学会に衝撃を与え、批判も多かったようです。それまで「渡来人の影響は無視できる程度」というものでしたから。
しかし、その後、大量渡来説を支持する人類学的研究もかなり出てきて,90年代には有力な説として認知されていました。
100万人といっても,1000年間の長きに渡っての流入ですので,1年当たりに直せば年間1000人程度。充分ありうる数字でしょう。
なお、在来の先住民はいわゆる縄文人で、南方モンゴロイド(ユーラシア大陸が寒冷期に入るまえに日本列島に住みついた人々)。頭骨などの研究からアイヌ民族、琉球地方の人々と共通点が多いそうです。
渡来人は、主として朝鮮半島から稲作技術とともに流入してきた北方モンゴロイド(ユーラシア大陸で寒冷期をへた人々)で、いわゆる弥生人の直接的な先祖でしょう。
現在の日本人は両者の混血というわけです。
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弥生人が渡来人とした場合、家族で移動したのか男が多かったのか、によってその後の遺伝子の状況に違いがあるかもしれません。
それでもまあ、縄文人がアイヌと同じ遺伝子分布だったとしてもY染色体から見る限り日本人の半分は渡来系なわけですが。
もっともY染色体の人口分布は、権力者の子孫が伸張するという形で移住人口とかを反映しなくなると言われてるようですので、日本でもハプログループDが伸張するような事象があったのかもしれません。
日本の権力者というと――
徳川家だと年代的に近すぎる気がするんで、天皇の子孫ということになってる源氏が実は…?
とか
普通に考えると渡来系な気がする天皇家自体が実は…九州の縄文系とか???
最初のリンクは私も見ていました。件の書き込みは全部消されたようです。
二番目のリンクは知りませんでしたが、これ以外のブログにも複数の名前で同じ内容の大量投降をしているようです。
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/528.html?b=10
もし大陸からの渡来がなかったなら、縄文晩期から古墳時代までの年間増加率は0.4%以上というあり得ない高さになる。
150万の渡来は、縄文晩期の人口を7万5千、人口増加率を0.2%にしたときの計算。
9万5千の渡来は、初期人口を16万、人口増加率を4%に仮定したときの数値です。
この数字だけみると、弥生から古墳の1000年間に、数十万の渡来があったと見るのが妥当のようです。
埴原説の縄文人南方系説について、遺伝人類学は否定的のようですね。
朝鮮南部から稲作文化を携えて渡ってきた人々は、丸ごと日本に移住したか、半島に残った人はホロコーストを受けたのか…
稲作文化だけが伝わって、人間はほとんどやってこないで、実際に稲作を行って人口爆発を起こしたのは縄文人だった…
謎ですね。
日本人学者の思考が田舎者的だったのかな?
日本以外で濃厚に分布してるのがチベットとアンダマン諸島だけとかいうY染色体のハプログループDを持ってる人が日本人で4割、アイヌで7割だか8割という話ですから、7万5千しか人口がなかったところに百万人移住はありそうもないような。
渡来民のほうこそハプログループDを持ってたと考えるのも面白そうだけど、チベット以外の大陸では保持者がほとんどいないのとアイヌに多いことの説明が難しい。
9万4千なら良い線いってる気もするけど、農耕ゆえに渡来民の人口増加率のほうが高かったような気もしますし。
どうなんでしょうねぇ。