1歳5か月になる孫娘は、まだしゃべれませんが、童謡を聞くのが好き。
幸せなら手をたたこうは、最近のお気に入りの一つです。
「てをたたこう」のところでは手をうち、「あしならそう」のところでは足をばたばたさせます。
坂本九が歌ったこの曲が、じつはフィリピンの民謡だったという意外な話を、昨年11月のNHKのドキュメンタリーで見ました。
孫娘にはフィリピン人の血が流れているので、特に気に入っているのかも。
詞をつけたのは、早稲田大学名誉教授の木村利人さん。学生時代にボランティア活動でフィリピンに滞在したときに耳にしたメロディーを元にしたそうです。
番組では、木村さんがフィリピンに行ったとき(1960年頃)、フィリピンには、太平洋戦争の時に日本人に虐殺されたフィリピン人の家族や子どもがいっぱいいて、日本人を憎んでいる現地人から「日本人、死ね」と言われてショックを受けた、というエピソードが紹介されていました。
ネットで探すと、木村さんに関する記事が複数ありました。
たとえば東京新聞2020年8月20日の記事(リンク)
この記事には、太平洋戦争中のフィリピンについて、次のような記述がありました。
旧日本軍は太平洋戦争開戦後に米領のフィリピンに侵攻し、1942年1月にマニラを占領した。米軍は44年10月、レイテ島に上陸して反撃。45年2~3月にマニラで市街戦が繰り広げられ、旧日本軍による住民虐殺などで約10万人の市民が犠牲になったとされる。フィリピンでは旧日本軍が約52万人、フィリピン人が約111万人死亡したとされる。
太平洋戦争中のフィリピン人犠牲者は、日本軍による虐殺もありましたが、米軍の空爆や艦砲射撃によるもののほうが多かったはず。
米国は、1898年から1946年まで48年間、フィリピンを植民地支配しました。これは、日本が韓国を植民地にしていた期間よりも長い。そして、1899年から1902年までの米比戦争とその後のゲリラ戦による死者は20万~150万といわれるそうです。
1960年ごろの時期には、米比戦争を記憶する者は少なく、14年前の太平洋戦争の記憶が生々しかったので、日本人が恨まれていたのでしょう。
幸せなら手をたたこうは、最近のお気に入りの一つです。
「てをたたこう」のところでは手をうち、「あしならそう」のところでは足をばたばたさせます。
坂本九が歌ったこの曲が、じつはフィリピンの民謡だったという意外な話を、昨年11月のNHKのドキュメンタリーで見ました。
孫娘にはフィリピン人の血が流れているので、特に気に入っているのかも。
詞をつけたのは、早稲田大学名誉教授の木村利人さん。学生時代にボランティア活動でフィリピンに滞在したときに耳にしたメロディーを元にしたそうです。
番組では、木村さんがフィリピンに行ったとき(1960年頃)、フィリピンには、太平洋戦争の時に日本人に虐殺されたフィリピン人の家族や子どもがいっぱいいて、日本人を憎んでいる現地人から「日本人、死ね」と言われてショックを受けた、というエピソードが紹介されていました。
ネットで探すと、木村さんに関する記事が複数ありました。
たとえば東京新聞2020年8月20日の記事(リンク)
この記事には、太平洋戦争中のフィリピンについて、次のような記述がありました。
旧日本軍は太平洋戦争開戦後に米領のフィリピンに侵攻し、1942年1月にマニラを占領した。米軍は44年10月、レイテ島に上陸して反撃。45年2~3月にマニラで市街戦が繰り広げられ、旧日本軍による住民虐殺などで約10万人の市民が犠牲になったとされる。フィリピンでは旧日本軍が約52万人、フィリピン人が約111万人死亡したとされる。
太平洋戦争中のフィリピン人犠牲者は、日本軍による虐殺もありましたが、米軍の空爆や艦砲射撃によるもののほうが多かったはず。
米国は、1898年から1946年まで48年間、フィリピンを植民地支配しました。これは、日本が韓国を植民地にしていた期間よりも長い。そして、1899年から1902年までの米比戦争とその後のゲリラ戦による死者は20万~150万といわれるそうです。
1960年ごろの時期には、米比戦争を記憶する者は少なく、14年前の太平洋戦争の記憶が生々しかったので、日本人が恨まれていたのでしょう。
カラオケで歌うと受けるかもしれません。
ネットで検索すると元々はスペイン民謡とか。
滞在中、フィリピンの人々はリッチじゃなくても、歌ったり踊ったりして幸せそうだなと思いました。
フィリピンの人たちはとても楽天的ですね。窓口で長く待たされても、怒り出す人がいない。
韓国とは反対です。