韓国の法律は日本の法律に似ていて、その理由は、韓国が植民地支配から脱したとき、それまで使っていた日本の法律を直訳したからだと言われています。
たとえば、刑法の中の名誉棄損罪の条文も、かなり似ている。
まず、日本の刑法 (リンク)は次のとおり。
(名誉毀損)
第230条
1 公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金に処する。
2 死者の名誉を毀損した者は、虚偽の事実を摘示することによってした場合でなければ、罰しない。
(公共の利害に関する場合の特例)
第230条の2
1 前条第1項の行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。
2 前項の規定の適用については、公訴が提起されるに至っていない人の犯罪行為に関する事実は、公共の利害に関する事実とみなす。
3 前条第1項の行為が公務員又は公選による公務員の候補者に関する事実に係る場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。
(侮辱)
第231条
事実を摘示しなくても、公然と人を侮辱した者は、拘留又は科料に処する。
(親告罪)
第232条
1 この章の罪は、告訴がなければ公訴を提起することができない。
2 告訴をすることができる者が天皇、皇后、太皇太后、皇太后又は皇嗣であるときは内閣総理大臣が、外国の君主又は大統領であるときはその国の代表者がそれぞれ代わって告訴を行う。
これに対し、韓国の刑法(名誉毀損罪)は次のとおり(リンク)。
第307条 (名誉毀損)
1 公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、2年以下の懲役もしくは禁錮または500万ウォン以下の罰金に処する。
2 公然と虚偽の事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、5年以下の懲役、10年以下の資格停止または1千万ウォン以下の罰金に処する。
第308条 (死者の名誉毀損)
公然と虚偽の事実を摘示し、死者の名誉を毀損した者は、2年以下の懲役もしくは禁錮または500万ウォン以下の罰金に処する。
第309条 (出版物等による名誉棄損)
1 人を誹謗する目的で新聞、雑誌またはラジオその他出版物によって第307条第1項の罪を犯した者は、3年以下の懲役もしくは禁錮または700万ウォン以下の罰金に処する。
2 第1項の方法で第307条第2項の罪を犯した者は7年以下の懲役、10年以下の資格停止または1千500万ウォン以下の罰金に処する。
第310条 (違法性の阻却)
第307条第1項の行為が、真実の事実であり、専ら公共の利益に関するときは、罰しない。
第311条 (侮辱)
公然と人を侮辱した者は1年以下の懲役もしくは禁錮または200万ウォン以下の罰金に書する。
第312条 (告訴及び被害者の意思)
1 第308条及び第311条の罪は、告訴があるときに限り、公訴を提起することができる。
2 第307条と第309条の罪は、被害者の明示した意思に反して公訴を提起することができない。
ただ、細かくみると、違う部分もあります。
名誉棄損罪が「公然と事実を摘示して、人の名誉を毀損したとき」に成立するのは日韓共通。
ここで「事実」というのは、日常用語と少し違いがあって、法律用語の「事実」は、
2.[法]それが、あったかなかったか、証拠にもとづいて判断できることがら。(三省堂国語辞典)
「それが、あったとき」は「真実(の事実)」、「それが、なかったとき」は「虚偽の事実」になるようです。つまり、真実も虚偽も「事実」なんですね。そして、「事実」に対する反対概念は「意見」です。「意見」は「その内容を証拠にもとづいて判断できないことがら」です。
日本の名誉棄損罪では、摘示された事実が真実であるか虚偽であるかによって、違いがありません。
しかし、韓国では「虚偽の事実」を摘示したときは、「真実」を摘示したときよりも、罪が重い。
たとえば、誰かが私について、公然と「あいつは犬鍋を食った」と言いふらした場合、日本で「犬鍋を食べる」という行為が「社会的名誉を傷つける」行為であると仮定すると、私はその人を「名誉毀損」で訴えることができます。「犬鍋を食べること」は「証拠にもとづいて判断できることがら」です。
もし、私が犬鍋を本当に食べたのであれば、それは「真実を摘示したことによる名誉毀損」で、私が犬鍋を食べなかったのであれば「虚偽の事実を摘示したことによる名誉毀損」になります。
日本の刑法では、どちらも量刑の重さは同じですが、韓国の刑法では、「私が犬鍋を食べていなかったとき」のほうが、重く罰せられます。
実際は、韓国において「犬鍋を食べること」は別に社会的評価を傷つけないので、名誉棄損罪は成立しないでしょう。
また、私の場合、日本においても、「犬鍋を食べることを人に知られることが自分の社会的評価を傷つける」と思っていないし、平素、自分が犬鍋を食べることを周囲に吹聴して回ったりもしていますので、告訴することもないでしょう。
さて、日韓比較に戻ります。
被害者が死んでいる場合、名誉毀損が成立するのは「虚偽の事実」が摘示されたときだけで、「真実」が摘示されたときは成立しない、というのは、日韓共通。
また、公共の利益に関する場合にもやはり「虚偽の事実」が摘示されたときだけ処罰されます。
韓国の名誉毀損罪で特徴的なのは、「出版物等による名誉毀損」が別に項目立てされているところです。
「出版物等」というのは「新聞、雑誌またはラジオその他出版物」となっていて、インターネットなどの電子媒体も含まれると思われます。
出版物等による名誉毀損は、出版物等によらない一般の名誉毀損よりも罪が重い一方、「人を誹謗する目的で」という制限が設けられています。つまり、出版物などで事実を摘示して、結果的にある人の名誉を毀損したとしても、それを行った人に「誹謗する目的」がなかった場合は、処罰されないということのようです。
もう一つ、日本の名誉毀損罪では、「告訴がなければ起訴できない」となっており、いわゆる「親告罪」なのですが、韓国では「被害者の明示した意思に反しては起訴できない」となっていて、被害者が告訴しなくても、「告訴しないでほしい」という意思の明示がないかぎり、第三者の告発に基づいて検察は起訴できるようです。
産経新聞の名誉毀損事件の場合、「被害者」である朴槿恵大統領は告訴していないのに、第三者である市民団体の告発によって、検察が起訴することが可能だったのは、この条項のためです。
ところで、『帝国の慰安婦』裁判も、「名誉毀損」について争われています。
裁判では、元慰安婦たちが告訴したことになっていますが、実際には、元慰安婦たちは本を読んでいない(読めない)ので、実質的な告訴人は支援者で、第三者による告発に基づく起訴と言ってもよいのかもしれません。
『帝国の慰安婦』は出版物ですので、韓国の刑法の第309条「出版物等による名誉毀損」が適用されます。
したがって、朴裕河教授の名誉棄損罪が成立するためには、朴教授が、元慰安婦たちを誹謗する目的で、事実を摘示して、元慰安婦たちの名誉を毀損したことを証明しなくてはなりません。
検察は、朴裕河教授を、『帝国の慰安婦』という「出版物」により「虚偽の事実を摘示」したことによる「名誉棄損罪」で起訴し、懲役3年を求刑しました。
具体的には、『帝国の慰安婦』の35か所の表現を挙げ、
(1)「慰安婦は本質が売春だった」という虚偽の事実、
(2)「朝鮮人日本軍慰安婦たちは、日本または日本軍の愛国的または矜恃をもった協力者で、日本軍と同志的関係にあった」という虚偽の事実、
(3)「日本ないし日本軍による慰安婦強制動員または強制連行はなかった」という虚偽の事実
を摘示したと主張しています。
この主張について、裁判所が吟味しなければならないのは以下の項目です。
1.告訴人が指摘した表現は「事実の摘示か」
2.事実の摘示である場合、摘示された事実は「告訴人の名誉を毀損しているか」
3.事実の摘示である場合、事実の摘示は、「告訴人を誹謗する目的で行われたか」
4.事実の摘示である場合、それは「公共の利益に関するものか」
5.事実の摘示である場合、摘示された事実は「真実か虚偽か」
裁判所は、35か所の表現について、まず、
1.告訴人が指摘した表現は「事実の摘示か」
を吟味し、35か所のうち30か所は、「事実の摘示」ではなく、「意見の表明」なので、名誉棄損罪は成立しないと判断しました。
そして、残りの5か所については「事実の摘示である」と認めました。そこで、これらについて、次に
2.摘示された事実が「告訴人の名誉を毀損しているか」
を吟味しました。そして3か所については、摘示された事実、すなわち「朝鮮人女性たちを強制的に連行し慰安婦にすることは、日本ないし日本軍の公式的な政策ではなかった」という事実は、告訴人らの名誉を毀損する表現ではないので、名誉棄損罪は成立しないと判断しました。
さらに、残りの2か所については、摘示された事実、すなわち、「朝鮮人日本軍慰安婦の中には自発的な意思によって慰安婦になった人がいる」という事実が、告訴人らの「名誉を毀損しうる表現に当たる」と認めましたが、被告は個々の人を特定せず、「朝鮮人日本軍慰安婦」という集団名を記しただけなので、集団の個別構成員である告訴人らの名誉を毀損したとはいえない、したがって名誉棄損罪は成立しない、と判断しました。
これで、検察が挙げた35か所のすべてについて、「名誉棄損罪は成立しない」と判断したので、朴教授の無罪を宣告するのに十分です。判決文はここで終わってもよかった。ところが、裁判所は、さらに次のような判断を追加しています。
「たとえ『帝国の慰安婦』のそれぞれの表現によって告訴人ら個々人の名誉が毀損されたと見ることができたとしても、被告に名誉を毀損するという故意があったとはいえない。」
「本書の全体的な内容を見れば、被告の主要な執筆動機は「韓日両国の相互信頼構築を通じた和解」という公共の利益のための目的から発したものであり、朝鮮人日本軍慰安婦被害者たちの社会的評価を低下させようという目的があったと見ることはできない。」
これは、裁判所が、本来不要であった、
3.事実の摘示である場合、事実の摘示は、「告訴人を誹謗する目的で行われたか」
についての吟味を行ったことを示します。
この追加により、たとえ上級審で、35か所の表現のいくつかについて、「名誉が毀損された」という新しい判断が出たとしても、それは「故意ではない」ので、「出版物による名誉棄損は、人を誹謗する目的でなされたものでなければ成立しない」という、刑法309条1項の趣旨に照らして、「名誉棄損罪は成立しない」ということを先回りして判断したものです。
また、裁判所は、
「本書で扱った朝鮮人日本軍慰安婦問題は、韓国国民が知るべき公共性・社会性を持つもので、公的関心事に該当する。このような公的関心事に関する表現については、私的領域の事柄に関する表現とは異なり、活発な公開討論と世論形成のために、表現の自由を幅広く保障すべきである。」
とも述べ、
4.事実の摘示である場合、それは「公共の利益に関するものか」
についての吟味も行っています。
そして、本書が「公共の利益」を目的に書かれた本であることを認定し、もし名誉を毀損するような事実の摘示があったとしても、刑法310条の趣旨に照らして、その事実が「虚偽の事実」でなければ名誉棄損罪は成立しないということを示唆するとともに、本件のような「公的関心事に関する表現」については、安易に名誉棄損を認めるべきではない、と戒めています。
この判決では、指摘された表現が「事実の摘示」ではないか、「事実の摘示」であっても「名誉毀損」につながらないため、
5.事実の摘示である場合、摘示された事実は「真実か虚偽か」
について吟味する必要は生じなかったのですが、告訴人が指摘した表現とは別に、本書全体の内容にについて、
「被告が本書において、既存資料についての自分なりの評価と解釈に基づいて論争の余地の大きい主張を提起するという程度を越えて、新しい資料を捏造したり、既存資料の内容自体を歪曲したりするというようなやり方で、虚偽の歴史的事実を作り出そうという意図を持っていたとまで見ることは難しい。」
と述べて、全体的に「虚偽がない」ことを認定しています。
さらに、
「本書で被告が示した見解、たとえば「日本軍慰安婦被害について、日本に法的な責任を問うことはできない」という見解には批判と反論がありうるし、「日本軍慰安婦被害に対する日本の責任を帝国主義や家父長制、資本主義等の一般的な社会構造の次元のものに還元すれば、結局、日本の責任を薄める」という反論、「本書の論旨は、たとえ著者が意図していなくても、結局、慰安婦問題否定論者たちに悪用されてしまうだろう」という危惧もありうるが、これはどこまでも互いに異なる価値判断と評価の問題で、その判断は裁判所の能力と権限の範囲を越えている。」
とも述べて、本書の内容が真実か虚偽か、正しいか間違っているかを判断するのは裁判所の役目ではない、という判断を下しています。
このように、この一審判決は、今後の上級審で判決が覆されることがないように、用意周到に何重もの予防線が張られていると見ることができます。
実に論理的で整然とした判決文です(要約版リンク、全文リンク)。今後、上級審でこの判決が覆されることはたぶんないでしょう。朴教授が敗訴した民事裁判にも、今回の判決がよい影響を与えればいいなあと思います。
ところで、この判決に対し、京郷新聞のイ・ボムジュンという若い記者がケチをつけ、裁判長の批判までしています。
「イ・サンユン裁判長は、35か所の表現が真実であるか虚偽であるかの区別さえせず、歴史記述の限界を明らかにすることもしなかった。」(リンク)
先に述べたように、事実が摘示されているとしても、その事実が「真実であるか虚偽であるか」は、「名誉棄損罪が成立するかどうか」には関係がなく、たんに量刑にかかわるに過ぎません。そもそも「名誉毀損」になっていなければ、真実か虚偽かを吟味する必要もないわけです。
イ・ボムジュン記者は、あまりにも読解力が不足しているので、『帝国の慰安婦』も、「判決文」も、そして刑法の条文さえもまともに読解できないようです。
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2 コメント
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- 稀に接する犬鍋さんのお声、、、 (MDK)
- 2017-03-05 03:02:04
- 読み応え有り!!!
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- 法律の文章 (犬鍋)
- 2017-03-09 21:54:28
- 法律や判決文を読むと、つくづく特殊な文章だなあと感じます。
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