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夏の終わりに パリの交差点で




パリもブルージュも猛暑だった。

少し前までは22時ごろまで明るかった空も、この頃では20時過ぎくらいまでに。

秋が忍び寄って来る。

秋口の太陽が壁の上で淡く燃えるような様子に感激し、この写真を撮ったのはパリの交差点で車を出してもらうのを待っている最中だった。


夏休みが終わる前、わたしは毎年ものすごい美に出会う。

先日も少し書いた対象のことだ。


バカンス先から綺麗に日焼けして帰って来たばかりの14、5の青年が、真っ白なシャツを腕まくりして、その色のレフ板効果なのか目が輝いている。眉もくっきりと美しい。
膝丈のバミューダパンツからは多少骨ばったまっすぐな脚。
新学期前の散髪にもまだ行っておらず、髪が伸びたのを無造作にしてい、その横顔はまるで少女のようでもある。

その数週間すら持続しないであろう造形の美しさに心を打たれる。
それは欧州の突然終わってしまう夏、すぐに褪せてしまうであろう日焼けの色、一瞬で終わってしまうティーンエイジャー特有の美しさである。

それは個人的な「美」ではなく、クーロス像のようなものだ。

だから中年がいやらしい欲望の目で若者を見ているのでは決してなく(それを言うならわたしは昔からアイドルのような若い男よりも年かさの男が好き)、一瞬で過ぎ去ってしまう形の儚さ美しさを、庭園にある花や、神殿や美術館にある作品を鑑賞するときのように「美しい」と言っているのである。

アッシェンバッハ先生もこう言っている。

「いいなあ とアッシェンバッハは、芸術家がときどき、一つの傑作に面して、その狂喜、その恍惚をあらわす、あのくろうとらしく冷静な是認の気持ちで、そう思った」(P29)

「つまり、同じようにこの神も、われわれに精神的なものを見せるために、このんで若い人間の姿と色を用いてそれを美のあらゆる繁栄でかざっては追憶の道具とするのだ」(p45)

「美とは、われわれが感覚的に受けとり得る、感覚的にたえ得る、精神的なものの唯一の形態なのだ」


あの作品を、巷によく紹介されているように「同性愛の物語」と一言で断定してしまうのはあまりにも一面的すぎると思う。

もちろん、トマス・マンも、プラトニックな愛を描いてはいるが、あの話は完璧な美を追い求め「徳」という美に関しては成功して名誉と地位を得た男が、完璧な美そのものに出会ったときには手も足も出ず、追っても追っても追いつかず、悪あがきを続け、醜態を晒し、ただ滅ぶしかなかった。

疫病の蔓延する沈みゆくヴェネツィア、死の予感、儚い少年時代、ヴァカンス、旅路、斜陽の貴族階級がそれを彩る。

決してピンで留めて保管することのできない美、言語では表すことのできず、何者かが晩夏の輝く海辺で「望みにみちた、巨大なもの」(p79)のある遠くを指差すその先にのみあり、決してたどり着くことのできないようなものなのだ。


引用は実吉捷郎訳『ヴェニスに死す』岩波文庫
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