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夜景




神戸の山手で育ったため、夜景は原風景だ。

夜になると南側の窓やベランダからは、当時の価値で「百万ドル」と謳われた神戸の夜景が見えた。
天気がいい日は淡路島、和歌山方面までくっきりと眺められ、光の色を頼りに空想をするのが楽しみだった。


また、両親が、夏休み、クリスマス、お正月の時期に友人家族と都会のホテルで過ごすのを恒例行事にしていたからだろう、子どもの頃からリゾート地のホテルよりも大都会のホテルの方が好きだった。

夜のひっそりした繁華街には、世界が均衡を失って崩れ出しそうな魅力があった。
(撞着語は非常に魅力的である。ひっそりした繁華街、水のないプール、醜い美女など)

部屋の窓から眼下に夜景が、子どもの自分のおもちゃのように、手に取るように見えた。

以上2つの理由で都会のホテルが好きになったのだ。


だからではないだろうが、ちょっと大人のつもりになってからはネオン街を好んで彷徨うようになる(笑)。


今、静かで穏やかで退屈な夜を迎えるブルージュに住まっていても、大都会のホテルの高層階にあるバアや、客室から眺める夜景がひたすら恋しい。

一人きりのホテルの部屋もかなりいい。
男女問わず素敵な人と過ごすのもいい。
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神戸




日常の活動範囲は居住地によってだいたい決まってくるが、わたしの場合、神戸とは阪急沿線から北側限定、場所によっては山手幹線沿いが入り、東は東灘区、西は元町まで、そこから飛んで海といえば須磨、ジェームス山、といった感じのエリアを指す。
となりの芦屋市には、祖母、大叔母らが住んでいるので、その辺りも身体感覚に含まれている。


わたしが子どもの頃は沢ガニのとれる急流や、隠れ家を掘ることすらできる粘土質の柔らかな山肌、とげのある野いちごのなる茂みなどが周囲にあり、どろどろになって遊びまわった。


こぢんまりした美術館群、桜のトンネルの坂道、神社の梅林、竹林、洋館、舶来品を扱う商店、明るい服を着たおしゃれな大人...
ガイドブックに乗っているような表現しかできないのが口惜しい。

太陽に背中を押されながら上りつめる坂道。
御影の蝉時雨。
芦屋の山にあるプール。
須磨水族館と王子動物園。
鴨子ヶ原の外国人の家。
高架下の靴屋。
北野のマンション。
洋菓子の老舗。パン屋さん。
六甲さんや摩耶さんから見る夜景。
須磨へのドライブ。
神話時代にさかのぼれる小さな旧跡。
インド料理。
教会と神社。


夏の夕暮れ、すべてがオレンジ色で、蝉が「そんながんばらんでも」というくらい力をふりしぼって鳴く中、六甲の坂道を上りきったところにある、山の傾斜にそって建つマンションで、大好きだった男の子がわたしの来るのを待っていた。
キッチンで彼がアイスクリームを入れてくれると(わたしはアイスクリームは昔から嫌いなのだ。でも女の子はアイスクリームを食べるのだ)教会の鐘の音がし、しばらくしてからは霧笛が聞こえてくる。

そういうところ。


神戸人にとっては神戸が唯一無二の街であり、就職で神戸を離れても「死ぬときは神戸で」と真剣に思っているのである。

神戸を日本から独立させて「神戸共和国を建国する」というウワサはたぶん100パーセントの冗談ではない。
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東欧




ハンガリー人の友人がいた。

1991年だったと思う。さくらんぼの果樹園がある彼の家で、彼の弟2人と、わたしの友人と、計5人で春休みを過ごしたことがあった。

ハンガリーは東欧の優等生ではあったが、当時も社会主義の陰を濃く残しており、宮殿や聖堂などの建築物は煤にまみれたままで、特に田舎の19世紀の戯曲の書き割りのような風景は、古くさく、素朴で、意味深だった。


その頃、REMの Losing my Religion が流行っており、東欧社会の様子に勝手に歌詞を結びつけたわたしは、彼らがどのような気持ちでその曲を聞いているのか、尋ねたくて尋ねられなかったことを思い出す。
ひょっとしたら誰も何とも思っていなかったかもしれないけれど。


夜中、このさくらんぼ園で作ったパーリンカ(スピリッツ)を5人であおり、わたしは「荒城の月」を2番まで歌った(録音されていた)。
なぜに荒城の月なのか? もっとかわいらしい歌を歌えなかったのか?
このころからすでにわたしはおっさん化していたのかと思うと軽いショックである。


このころからわたしは東欧にロマンティックな幻想を抱いている。


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bill evans




親愛なる ビル・エヴァンスさま

あなたの音楽のすべてを愛しています。

夫は
わたしがあなたのようにジャズ・ピアノを弾くことを期待していますが、
彼がどういうつもりで
そんな身の程知らずなことを言うのかぜんっぜん理解できません。

せめてあなたの1%くらいの才能がわたしにもあれば。

どうか「オペラ座の怪人」のように現われて、
わたしにレッスンを授けてください。

かしこ。


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パリの人々




その一:パリで必ず行くオデオンの鉄板焼レストランさんにて。

わたしたちのお隣はカウンターに陣取った5人のおしゃれなパリジャン諸君。
つきだしは枝豆。

全員が各枝豆をひとつづつ房から小鉢に出し、やおら箸で召し上がった。
難しそうやな。


その二:とあるイベントのVIP席にて。

ジャン=ポール・ゴルチェ氏。

非常に気さくな方で、笑顔がステキで、自分のキャンディを周りの人に「食べる?」と回す(おばちゃんが「アメちゃん食べる?」の、あのノリ)、サインをお願いされると似顔絵まで描きだす...

そういえば彼が落書き(イラストと言うべきか?)した真っ白いバーキンを、リンダ・エヴァンジェリスタが持っている写真を見たことがある。
わたしもお願いするべきだったか。

そして常にボーダーのシャツをお召しであるのは事実のようだ。この夜は黒とブルーの横縞シャツだった。

「フランス人」のカリカチュアは必ずこの縞シャツにハンチングをかぶっている。
首にはネッカチーフ(スカーフではない)を巻いていたり。
マルセイユあたりのいなせな船員風とでも言うのだろうか。分かりやすい。

ゴルチェ氏の「外国人から見た〇〇人」というステレオタイプのファッションで示す諧謔性。さすがアーティストだ。日本のYMOも同じ手法でで受けましたな。


その三:街角で。

フランス人に何が起こったのだ?

最近多くの人が英語を話す。特に若い世代。
イギリス人並に上手な人もたくさんいるし、また決して上手ではない人でも一所懸命単語を思い出して会話を続けようとしたりする。
10年前とくらべるだけでもこの変化は顕著である。
どうしたんだフランス人?
地下鉄の広告にも「あなたの履歴書はすばらしい。でも英語は話せるの?」というのがあって、ここはいったいどこだったっけ? と思った。

パリは本当におもしろおかし、ええとこである。
少なくとも観光で訪れるには。
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