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madrid cop25



サラマンカ地区からアルカラ門の方へ。


第25回気候変動枠組条約締約国会議、開催中のマドリードの週末は

憲法記念日(12月6日)
カトリックの重要なお祭り、無原罪の御宿り(12月8日)

と重なり、代休を入れた4連休で

クリスマス・マーケットが出ていることもあり

しかも素晴らしい冬晴れが続き

夜中まで子供から老人まで大変な人出だった。


ちなみにわたしは若い人たちの環境保護活動を無条件でサポートする立場。



その理由を聞かれたのですぐに思いつく点だけちょっとだけ書き留めておく。

どなたかの発言を受けてのWataboutisum「そっちはどうなんだ主義」は非常に幼稚だと思う。

例えば、C国は同じことをやっているのになぜC国の所業を追求しないのかとか、文明批判をしているにもかかわらず文明の利器の恩恵に預かるのは矛盾しているぞ、とか。

すべてに言及しなければその発言に価値はないという態度は、小学生がおもしろがって言う「何時何分何十秒?」さながら未熟であり、C国にも改善すべき点があるのなら、それはそれとして議論すればいいだけである。

文明の行き過ぎに危機感を持つ人は、よりよき未来のためにみなで意識や行動を変えていこうと言っている。白じゃないなら黒じゃなきゃというのは揚げ足取りであり、こちらもとんでもなく幼稚である。

いったい誰が子供か。


次に怒っている人を危険視したり、見下したりする点。
第一に、その人の怒りそのものではなく、怒りの理由に注目するべきである。
全く何に対しても怒らないのは立派な態度ではあるが、他人にもそれを要求することは単に抑圧である。ましてや政治に対して誰も怒らなくなった社会に進歩も復元力もない。


自分さえ良ければいいとか、今さえ良ければいいという考え方が、国や企業のトップから一般の生活にまで世界中はびこっていると思う。
この考え方は資本主義とセットになっているだろうから仕方がないのかもしれないが、だからこそ考え直さなければならない。

もちろん、当事者の「大人」として深い自戒を込めて言っている。
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coco chanel and svetlana zakharova




モード界の女王とバレエ界の女王の組み合わせ、といったら、多くの人を魅了するのは当然だろう。

Coco ChanelとSvetlana Zakharovaの組み合わせ...

Yuri Possokhov作の、タイトルもGabrielle Chanel

しかも衣装はシャネルが提供ときている。
もちろんダンサーは全員ボリショイのダンサーだ。

大陸欧州に住む、この組み合わせが絶対に好きな友達に集合をかけたくらいだ。
一番いい席で鑑賞できて満足!

3日間のロンドン公演の2日目の昨夜、Svetlana Zakharovaのパフォーマンスで残席があるなんて信じられなかったが(今年の夏のボリショイの彼女の『白鳥の湖』の回は即完売だった)、実に半分くらいは空席だった。
まず、プロモーションがまずかったのでは...
2年前の公演内容があまりよくなかったからなのでは...
ロンドンにしては値段が高い席が多すぎるのでは...(ロンドンは物価に比べたら観劇料金は概ね高くないのである)

それから...

英国のダンス評論家に言わせると、バレエ界の女王の評価はそれほど高くない。
いわく「ダンボールの切れ端」という揶揄には目を疑ったことがある。

言わんとすることは分かる。少々乱暴に要約すれば、芸術性(文学的とか叙情的とか)に欠けたアクロバティックな技だけが卓越した一連の身体運動はバレエではないということなのだ。

でもわたしは絶対音楽(音楽で何かを表現しようとする音楽でなく、音楽そのものを表現する音楽)ならぬ絶対舞踊を心から楽しんだ。
もっとも美しい身体で、もっとも美しい動き、もっとも美しい形だけを追求した一連のなにか。

Svetlana Zakharovaのこういう動きが見たいという動きが惜しげなく連続し、満載されている。それにつきる。
シャネルの人生の描き方が浅いとか、感情の表現に説得力がないとか、その通りだが全然気にならなかった。あれらはすべてスヴェトラーナの動きを乗せて動かすための乗り物に過ぎない。
ビューティー・ページェントかというくらい美しい人たちがずらりと舞台に並んでいるのも圧巻だった。うん、そうやって楽しむもんですよ、あれは。


特に前半もう一本のMauro BigonzettiのLike a Breathは音楽がヘンデル(絶対音楽)。わたし、超好み。音楽も衣装も振り付けも。
ダンサーはAna Turazashviliが好き!
先シーズンのロイヤル・バレエの『ロミオとジュリエット』のロミオ役で招かれていた美男Jacopo Tissiが、ロミオ役ではいまいちだったのに、スヴェトラーナの相手役で堂々として超絶美男ぶりを発揮していた。



「スタイリッシュ」というのがぴったりの2本立てだった。

数時間後にスペインに発たないならば今夜もう一回見たいくらい。


https://londoncoliseum.org/whats-on/modanse-starring-svetlana-zakharova/
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the sleeping beauty, natalia osipova 再び



Margot Fonteynのオーロラ姫、第二幕幻想シーンの衣装。
Margot Fonteynはロイヤル・バレエの一番最初のオーロラ姫だったそうだ。


前回、Natalia Osipovaの『眠れる森の美女』がよくなかった...と認めたのはかなり辛かった。ファンってその対象に同化してしまうんですね!

今シーズン2回目の舞台は絶対に改善されたはずだ! 前回はまだ温まっていなかっただけだ! と勇んで見に行った。


前回よりはずいぶんよかったと思う!
まず、前回はファンとしても無視しようにもできなかった、音楽が余ったり、無駄な動きがあったり(彼女にしてはありえない)、パートナーのDavid Hallbergと一緒に稽古する時間が足りなかったのか? と思わざるをえなかった部分などはかなり改善されていたが、彼女の一番いいパフォーマンスに比較したらやっぱり物足りなさが否めない。何があったのか心配になるくらいだ。

ひょっとして舞台が狭すぎるのか? わたしの座席からの角度が悪いのか? わたしが期待し過ぎているからか? と他の要素のせいにしたくなる。

第一、踊っていて全然楽しそうじゃないのだもの...


彼女が得意なターンの類は回転も十分だし、バランスも取れているし、引き上がっているしで美しい。

一方で、あの誰にも真似できない血の通った優雅さ軽さは一体どこに行ってしまったのだろう...16歳の喜びに光が炸裂するようなあの動きがもう一度見たい。
誰でもかつては16歳だった。ゆえに説得力があるオーロラ姫は桁違いの感動を呼ぶのだ。

 
David Hallbergも美しいのだが、どこかしんどそうに見える。実際にしんどいのかどうかはもちろん別にして観客に「しんどそう」と思わせてはいけない。


それはそれとして会場は割れるくらいの喝采だった。


もう『眠れる森の美女』は諦めて次の『オネーギン』を楽しみにしよう...
『眠れる森の美女』はMarianela Nunezがひかえているし...



1960年代のWoodland Grade(森林)の妖精の衣装。


昨夜のステージで一番美しかったのはリラの精の金子扶生さんだった。誰も文句はないと思う。
容姿の美しさは抜群、こんな美しい人がいるのかとうっとりする。気品も踊りの美しさも、死と再生を司る女神そのもの。

残念ながら彼女がオーロラ姫を踊る回を見る予定はないのだが、とても見たくなってきた...

来年は絶対にロイヤルバレエに日本人プリンシパル3人割拠の時代になると思う(現プリンシパルの高田茜さんと平野亮一さん)。


...


わたしの使う鉄道会社が昨日からストライキに突入...なんと1月2日まで、きっちり一ヶ月間。
英国病とはよくいったものである。
今度の選挙で労働党は組合の権利を復活させると公約にあげているため、わたしは常にプロレタリアートとしてプロレタリアートの味方であるが、もしそうなったらあの悪夢の英国病が再発...怒っている自分が簡単に想像できる。

で、最終電車が23時という無慈悲さ。しかもそれは各駅電車。
ロンドンの飲食店の商売あがったりじゃない?

一つ前の特急に乗るため、昨夜はカーテンコールを待たずに会場を出、ルブタンで走りに走る。「キャリー・ブラッドショウか!」とひとり突っ込む。
心はものすごく先を走っているのに、足が全然ついてこず、老化を実感。Natalia Osipovaの羽根のような軽さはどこへ...なんていう資格はないドタバタ。

80年代はコメックス(今調べたらまだあるのですね、この神戸発のブランド)のハイヒールでいくらでも走ったのになあ!

師走なのです。
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french lover




とてもとても好きな香り。


クリスマスに何が欲しいかと問われたら、わたしは「フランス人の恋人が欲しいなあ」と言うだろう。

夫のミドルネームはフランソワFrançois(フランスから来た人)だが、それじゃなくてだ。
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beatrice rana@wigmore hall ロンドン冬の朝




久しぶりに晴れた冬の朝、12月1日。

『道化師の朝の歌』。

青い透明な空から低く明るい光がウィグモア・ホールのあるウィグモア通りを照らしていた。

オックスフォード通りと平行に走っているこの通りは通常から人通りも少なめ。日曜日の朝はさらに静かで、車もほとんど走っていおらず、主な通行人はゆっくりとウィグモア・ホールへ向かうお年を召したカップルや、ジョギング中の近辺にお住いのヤッピー(<死語。でも分かりやすい)、子犬を散歩させる人など。

午後になるとクリスマスショッピング客でごったがえすオックスフォード通りの喧騒に比較して、清々しい。


Beatrice Ranaのラヴェルの『鏡』もショパンのエチュードもこの気持ちのいい冬の朝のようなクリスプでクリーンな演奏だった。

若手の中では彼女が一番好きだが、もうちょっとだけ、もうちょっとだけ、厚く広く観客の気持ちを巻き込んでいくようであればいいのに(『鏡』)、と昨日は思った。Oiseaux tristesとか。

まあ冬の朝に酔ったシロウトの無意味で役に立たない朝の歌(意見)にしかすぎない。


Beatrice Rana
Maurice Ravel: Miroirs
Fryderyk Chopin: 12 Etudes Op. 25
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