今日から華光会の永代経法要法座です。
永代経・永代供養というのは、今まで亡くなった方をお寺でずっと(永代)続けて供養してもらうというもの。
その多くが、先祖供養の儀礼と化しており、「先祖を敬わないと何か悪いことがおきるんじゃないだろうか」という畏れに対するものになっていますが、先祖や先達を偲ぶことを通じて、「今・ここにいる・私」がいかに仏法を聞かせてもらっているかと向き合うことが大事です。
法要というのは、死んだ人に対して行うものではなく、今、生きて、お念仏の出会わせていただく私のためのものです。
こういう法要に限らず「今・ここにいる・私」ということを抜かして仏法をやりとりする場面をよく目にします。
その多くは、相手を論破しようとしたり、欠点を粗探しして優越感に浸ったり…
そんなことより、”私自身”がどう聞かせてもらっているかが大事なんですけどね。
ある会を脱退した人が投稿しているものに対して、その場所や違う場所でやり取りが続いているものを目にします。
その方は、自分自身の体験を通してのお味わいを中心に書かれていますが、多くの方はそれを「正しい・正しくない」と、またその会のことを「正しい・正しくない」と一生懸命論戦を繰り広げています。
自分に法を説いてくださる人が「正しい」から、伝えてくれることを「正しい」と判断したい気持ちはわかります。
しかし、仏法の救いというのは、その間に立つ人が行うことじゃないんですね。
救い主は「弥陀」なんです。
そこの”信”ひとつなんですが、どうしても周辺事情にあーだこーだと…
順縁なのか逆縁なのか、そう簡単に判断できませんよ。
人の信心がどうかなんてどうでもいいじゃないですか。
「我が信やいかに」でしょう。
目の前に繰り広げられる縁を通して、自分自身の因と果を見つめないとね。
「仏願の生起本末」を聞かせていただく”縁”として、いままでのお育てや出会う人たちを思い、人のことはほっといて聞かせてもらいましょうよ。
一生懸命、先祖を敬うことじゃなく(敬うなとは言いませんよ)、人のことをあれやこれや詮索するのでもなく、「今・ここにいる・私」のための法を。