コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

自力は、捨てるのではなく、用事がなくなる

2008-05-06 00:00:46 | 真宗
このブログが、「『ハッキング』から『今晩のおかず』」までを話題にする某サイトの某会のスレッドで紹介されたようです。
おかげで、一気に60人超のアクセスが増えました。
ということで、よーこそ、おいでくださいました。
ご希望に沿っているかどうかわかりませんが、お付き合いくださいませ。


三日間の永代経が終わりました。
ほんとに稀有な、大事な、聴聞の場でしたね。

今日は少ない人数の座談会に二つ参加。
ある意味、今まで何度もご一緒している方々とのご縁でしたから、自然な流れで法の話に焦点が定まっていく感じです。

今までの聴聞も踏まえて、今の自分の居所を見つめ、無理せずに言葉にしていく作業。
「地獄があるなんて思えない」
「阿弥陀様といっても目に見えないし感じられない」
「自分の黒いところを隠したり避けたりしようとしていた」
普通の法の場なら「そんなんじゃ駄目」と言われるような発言も、それまでの実機を知らされるご法話の後では「よう、そこまで気付いてこられたなぁ」と受け止められるし、発言者もその後ろにある願いに包まれている気がする。

午前のご法話で、親鸞聖人が多く使われる「海」と言う表現を通してのお話。
午後のご法話で、「疑心」との関わりを通してのお話。
そのどちらもが、自分で「渡る」のでもなく、「渡る手段を作る」のでもなく、ただただ用意されている「願船」に乗せられることを教えてもらっている。
自力を減らすのでもなく、逆に頑張るのでもなく、「自力いっぱい、疑心いっぱい」の自分に見切りをつける…それが「任せろ」の声に応える、自力無効の世界。

それを知らされるのに、自分を飾って熱心な求道者になったり、邪魔な頭を振り絞って理解に努める必要はない。

わからんものはわからん。
感じられんものは感じられん。
黒い機いっぱいなものは黒いまま。
それをそのまま「救うぞ」の声がある。

無常と思えなくとも、無常だと言う事実。
罪悪深重と思えなくとも、罪悪深重だと言う事実。

もう先手先手で、願船が用意されている。
渡るのではなく、「任せろ」に応えることで「必ず渡す」という願いに包まれる。

簡単にいい子になれる私なら、とっくの昔に自分の積む善によってお浄土参りの種を作っているはず。
宿善を積めん奴だからこそ迷ってるのだし、迷ってるからこそ願行具足の南無阿弥陀仏が作られた。

私が敵うはずはない