先日からいろいろとネットでさまよっていたら、因果のことについて書きたくなってきました。
いままでも、なんどか「因果」に関するお味わいを自分なりにまとめようとトライするのですが…本題に入る前に、誤解されないように防衛線を張る時点で根が尽きてしまい、未完成のままです。
(以前コラムとして書き始めたもの)
また、理屈先行で説明しようとすると、これまた複雑なものを漏らさず説明する必要があるので大変なことになります。
そこで、基本的なこと(といっても簡単ではありませんが)は増井師の法話が華光会HPにアップされているので、そちらをご覧ください。
で、やっと、今書きたいことに入ります。
ある方が「因果」のことを話される時に「悪因悪果」「善因善果」「自因自果」ということを中心にはなしされ、特にその中の「善因善果」を中心にすえて、「だから良い善果を得るために、喜んで善を積みなさい」という流れになるらしいんです。
確かに「善因善果」というのは間違いのないことですし、善因がなければ善果はえられないでしょう。
しかし、その善果…この場合は「お浄土へ生まれる」ことのために「善」の行いをするということが、私に出来るんでしょうかね。
ましてや、その「善行」と言われるものがお金がらみであったり、人を多く集めることであったり…
たとえば、そのお金を稼ぐために、一切の欲の心もなく、争いや妬みの心もなく過ごしていけるんでしょうかね。
そればかりか、家族から奪って(盗んで)きたり、人を騙したりなんてことまでやりかねません。
その時点でどうでしょう、少しの施しという「善」が確かにあるかもしれませんが、その裏になる「悪行三昧」を見落としていませんか?
「善が悪を駆逐する」なんて言葉もありますが、仏さまの目から見た私の行動は「善」と思えるものですら「悪」の塊であると見抜かれています。
そう、仏法においての善というのは、ただただ「他力にお任せする」という事以外ありません。
言い換えれば、阿弥陀仏のしつらえた「善因」をいただくということじゃないでしょうか。
自分で出来る「善」というのはないんですね。
もちろん、これは「仏に成る」ということを芯にすえての見方であって、世間で生きていく上での「道徳的な善」を「やめなさい」「無駄ですよ」と言っているものではありません。
自分は「善行」をしているという思いが、自分の本当の姿を見ることを誤らせ、「悪行」しか出来ない見であることを隠してしまうんです。
でも、「悪行」しかできないなんて認めるのは辛いですよね。
たとえそれが真実で、自分で違うと思おうが思うまいが変わらないものであっても、そう簡単に認めるわけにはいかないです。
そうると、もうここは「聞いて聞いて聞きぬく」しかないですね。
私からすれば、「そんな悪行しかできない、辛い悲しい存在でしかない私だからこそ、阿弥陀仏は願をたてずにおれなかった」と味あわせてもらっています。
善のひとつも積めない事を、なんら悔いることはない。
もとからお見通しだったんだと。
因果の話の肝は「悪因悪果」であり、その道理が私の行き先をはっきりさせているということ。
簡単に「善行」を積めと言って、「頑張っている気持ちにさせる」ことほど、本当の自分を見誤らせることはないですね。
歎異抄の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」というのは、自分が悪行しか出来ないことを見通した上での言葉で、決して悪人になれという事ではないですし、もちろん、善人になれということでもない。
今の自分の姿をよくよく見たうえで、それがお目当てだと。
この「悪人正機」の話だけでも、一つの話になるのでこれはあらためて。
まぁ、私の拙い話より、ぜひ増井師の法話を読んでみてください。