コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

剥がされる教え

2008-05-15 23:50:03 | 真宗カウンセリング

今日は仏法のお話を。

ここでも何度か触れていますが、あるブログへのある方の投稿を契機に、親鸞会という組織の人が華光会に興味を示しているようです。
まぁそれ以前からつながりがないとは言えませんし、いまさらどうということはないのですが、真仮いりまじった情報には辟易としてしまいます。
いちいちそれを正して行こうとも思いませんし、付き合えば付き合うほど煽りや冷やかしに晒され心みだしてしまいますから。

しかし、そういう書き込みを見たりすることで、自分の足元を振り返ることが出来ます。

つくづく、華光で聞かせていただいていることは「剥がされていく」教えなんだなと。

「後生の解決」「信心獲得」「獲信」…それらを目指して仏法を一生懸命勉強される、また実践される方は多いでしょうね。
むしろ、そうやって積み重ねて真実に近づいていくことが「正道」なんでしょう。

しかし、「獲信」ひとつとってみても、そこには「今の自分をなんとかしたい」という「欲の心」が混じっているんじゃないでしょうかね。
ほかにも、「どうやって信心を得よう」とか、「どうやって解決しよう」とか、自分でどうにかしたいという気持ちが混じる。

真宗の教えというのは「弥陀を頼め」というもの。
「頼め」というのは、一見こちらから行動を起こすようにも見えますが、阿弥陀様の方で「願も行も具足した南無阿弥陀仏を用意した」から、任せておけという宣言が「一心に弥陀を頼む」ことだけでいいのだと。
自分ではどうしようもないうそれだけのものを用意するほどの存在を、こちらの下手な知識で計ったり、理解しようとしたりできるはずがない。
それだけ大きなものにぶち当たったら、もう何も出来ずにお手上げです。
お手上げだけじゃ困るから、頭を下げ手を合わせお念仏する。
一見自分でしてるようですが、これらすら自己を離れたところで成り立っている。

そういう「これができるはず」という思いを、ひとつづつ「剥がされる」のが法座ですね。
役にたたないことを知らされていく。
その「役に立たない」ということを根拠無しに言われてもうなづけないから、お聖経を規範としてこれでもかと知らされ、こだわっているものを手放していく。
お聖経を理解したり、記憶したりする行為とは全然別物ですね。

なにも出来なければ出来ないほど、寂しく哀しくなってくるのですが、そこは「ひとりじゃないよ」と。
一生懸命頑張ってきたことも知っていてくれた上で、「でも後生の解決に役立つものはひとつも出来ないでしょ」と。
「だから任せておくれ」という暖かみがそこにある。

「頑張るな」でも「頑張っても無駄」でもなく、「頑張ってるのは知ってるよ」と。
ただ、後生のことは「任せておくれ」と。

「信の一念」なんてものは、その瞬間を目指したって得られるもんじゃない。
手放して手放して、もうどうしようもなくなった時に「任せておくれ」の声にうなづくしかなくなる時…
自分でその時を向かえるのじゃなく、あとから「その瞬間だった」と言えるだけのこと。
それも、その時刻が大事なんじゃなく、そのひるがえり目を通過して「変わっている自分」が大事。

様々な時間経過を通じて、「今の私は確かに違っている」ということ。
同時に「私自身は何も変わっていない」といえるものがあるということ。

人は人だしねぇ。

どこかで聞いた話をしっかり胸に抱いて、「これだけは放せない」と力を入れて、華光の法座に来ても、何も入ってこないだろうし、何も捨てられないでしょうね。

「あの人は獲心してるんだろうか」「この人は正しいんだろうか」なんて探ってみても、自分のものさしが正しいかどうかもわからないだろうしねぇ。

「華光の法座に行って何か得よう」と思っている限り、逆に耳は閉じたまま。
いや、一生懸命聞いているつもりだろうけど、そんなのは自分の都合に合わせて取り込もうとしているだけ。

どこをどう切り取ってみても、こいつは「地獄一定」だと思い知らされるなら、今まで積み重ねてきたものも、これから積もうと思っているものも何の役にもたたんと知らされるだけ。
それこそ、親鸞聖人がたどり着いた心境じゃないでしょうかね。

親鸞聖人になるんじゃなく、親鸞聖人の言葉を理解することじゃなく、阿弥陀仏の「頼め」に応えるってことが親鸞聖人と一味だと知らされるだけ。
それを教えてくれるから「善智識」だと仰げるのであって、最初から「このひとは善智識だから、この人の言うことを聞けば間違いない」なんて信じ込むのは、積み重ねる行為でしかない。

もし、これから華光にお参りしてみようという方がこのブログを読まれたならば、まずはどういうつもりで来ようとしているのか見つめてみてください。
今まで積んできたものは全部捨てて、この「刹那」に聞かせてもらってください。
だから、それまでの聴聞暦も人生経験もまったく違う人たちが、膝を交えて話し合えるんです。

私は、それが当たり前だと思っていますが、そう思えるのもお育てあってのことなんだなと、いろんな論争を見て思えるわけなんです。

おかげさまで、足元を振り返らせていただきました。