今までも何度か話題にしたが、町内の役員でいろいろな会合に参加している。
今日は自主防災の集まりで「煙探知機」の設置義務に対する、地域一括購入の説明会。
で、こういう会合でいつも思うのだが、みな人の話を聞かない…聞かなすぎる。
音として聞いているいないで言えば聞いているんだろう。
しかし、自分の都合のいい聞き方をするし、なにか質問しようと思っている人はそのことに心が捉われているから、すでに説明されていることでも「自分の質問したい言葉で」一度外に出さないと回答に興味を示さない。
そんなやり取りを聞いているうちに、「この人は質問の答えがほしいのか、それとも不信感を吐き出したいのか」疑問に思えてくる。
おそらく後者なんだろう。
もっとも本人は質問しているつもりだろう。
しかし、吐き出したいんだから、どんな答えが返ってきても満足できない。
そこで、私のやり取りも含めて、私の周りのコミュニケーションに意識のある人がどういう風にしているのかを思い返してみた。
今日の会合では、質問に対して主催者側が一生懸命回答しようとしていた。
それはしごくまっとうで、丁寧な回答だった。
しかし、一生懸命答える、あるいは主催側の理屈を主張するばかりの印象がある。
なぜかと考えると、一度質問者の「質問の内容」を受け止めるという行為が抜けているからじゃないだろうか。
さらに一歩進めば、質問者の「質問したい気持ち」を受け止めることができれば違って来たんじゃないだろうか。
法律で決まった防災の機器を買わされる。
お金が絡むから、「義務なのか」とか「その価格は適正なのか」などという、なんとかしてお金を払わずにすまないかという方向の質問が多かった。
そこには「ちょっと困っている」という気持ちがあるようだ。
それを置き去りにして、表面の言葉にだけ答えているもんだから、質問者もなかなか納得しない。
回答者は、しっかり質問に答えているのに何が問題なんだ?という気持ちになってくるだろう。
と、こうして書いていると、法座で私がよく陥る場面に似ている。
自分のことを置き去りにして表面的な質問をされる方がいる。
そこには、そういう質問をしてなんとか手がかりにしようという何らかの”気持ち”があるはずなのだが、表面の言葉に応えてしまって、どんどん表層のやり取りになっていく。
質問者もこちらも、上滑りしていることに気づきだしても、なかなかそれをやめることができなくなる。
「そういう質問をしたくなったのは、どういう気持ちがあるんですか?」
と、ちょっと向きを変えることができれば、
「困っているんです」とか「怖いんです」だとかの気持ちの言葉が飛び出してくる。
千のうわべの言葉より、その一言の方がよっぽど重みがある。
その人がそこに”居る”
で、今日の防災機器の話だが、義務だとか、手間がかかるだとか、普及率はどうだとかの問題は表層のことだ。
消防の人が主張していたのは
「この機器を設置することで、家族の危険を減らすことができるんです」
ということだ。
この本当に自分の言葉として語られていることが受け止められない人たち。
思いが受け止めてもらえずに、耳を向けられない人。
そういう人たちの気持ちを受けとめきれずに、主張を受けとめてほしいとする人。
ちょっと、コミュニケーションに気を配れば、本質が伝わるのに…
もったいない話だ。
そういうコミュニケーション術を、講習の形でいろんな会合の場で広めて生きたいと思ってるんだけど…
どうやって宣伝すればいいんだろう?
http://homepage1.nifty.com/MANU/others/lecture.htm
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