今日は日曜礼拝。
結構大人数の子どもたちと、初めて法話担当するTさん目当てか、いつも以上の多くの大人のお参りでにぎわった。
もっとも、数の多少が大事なんじゃないけれど、多くの人が同じところで同じお話を聞いているってのは、そのことからも味わうことがあったりする。
緊張しながらも初法話を担当したTさんのお話は、その言葉は使わなくとも無常・罪悪・因果の道理・本願のお心とフルコース。
私自身も経験しているが、じっくり練ってきたものを理路整然と話するのは難しく、結局最後は「私が聞かせていただいているもの」がそのまま飛び出してくる。
上手になどと計らう言葉よりよっぽど真実味がある。
ただ、私の子どもにどう聞こえていたかは、またじっくりと聞いてみたいところでもある。
そんな盛りだくさんのご法話だったけど、印象深かったのは2点。
今日のお話の主題であろう、「死んでいく」ということ。
数字を元にお話されるけど、この世界中で1分に二人死んでいるという事実。
そして最後に絞り出されるように伝えられた「どうか聞いてください」というお心。
T先生のお心であり、その身体を借りて飛び出してくる阿弥陀仏のお心。
そして、そういうご法話に会わせていただく私はどうかというと…
これが「自分が死んでいく」というところを実感できない私だとどんどん浮き彫りにされてくる。
1年に6千万人死んでいくと知らされても「そのうち何割かはあの国の戦争で、何割は貧困国の餓死で、身近な病気や事故で死ぬのはどのくらいだ?」などと自分抜きの話にしてしまう。
よく「無常をとりつめる」とか「罪悪をとりつめる」とか聞かせていただくけど、そうできない自分というのがますます浮かび上がってくる。
もちろん同時に、そういうやつこそが他力のお目当てなんだと聞かせていただくのでもある。
「無常・罪悪をとりつめさせられる」というのがすっきりくるか。
だからこそ、自分の「とりつまる・とりつまらん」などという思いとは別で、事実を事実として突きつけられ、「だからこそ聞いておくれよ」の声に頭が下がる。
一方で聴聞を難しくされている方々は、自分でなんとか「とりつまる」身になろうとがんばられる。
「自分が死んでいく」と実感できるようにがんばる、あるいは実感できないことを嘆く。
「変わらない自分」ということを理解できる身に「変わろう」とされる。
そんなことを、後の座談も含めて聞かせていただいた。
あともうひとつ、ご法話の中で「なむあみだぶつ」と黒板に書かれた。
お話も後半で、小さい子どもらは少々疲れ気味で気持ちもよそに移りかけていたが、そういう風に黒板に書かれたら、それが小さい声であっても「なむあみだぶつ」と声にして読んでいた。
それはすごく簡単なこと。
意味や仕組みは分からなくても「なむあみだぶつ」と教えられて、そのままその口から飛び出すままに称える「なむあみだぶつ」
そこに、尊いものを感じた。
まずは、称えるが先。
「呼んでおくれよ」の声に応えるだけ。
それがもの足りるとか、もの足らんとか、大人の方がややこしいね。