今日は華光の「輪読会法座」
月に一度、華光誌の誌上法話などをテキストに行われている法座だが、平日の昼間に行われることが多く、なかなか参加できない。
しかし、今月は祝日だったのでおまいりすることができた。
「誓願不思議」というご法話を輪読したのだが、今月はその途中から。
阿弥陀仏の用意した「誓願」は、この私の「後生の一大事」にむけて、足りることなく満たされたものが用意されている。
私のほうで、思いや考えを及ぼす余地がない…それが不・思議、思議できようがない。
という話である。
そのことを元に、参加者で味わいを述べたりしていくのだが、余計な思い(計らい)が必要ないといわれているのに、それを分からないとか、分かろうとするとか、自分のありようを問題にしだす。
「聞につきる」と先生がおしゃった上で、「自他力廃立」の話をされているのに、そのまま聞かずに心の動きを待ったり、追ったりしてしまう。
「南無」と弥陀のほうから頼んでいるのに、「南無」となれないわが身を探る。
元々、この私が仏法を聞こうとするのは、この苦しみ、迷いの世界からなんとか逃れたくて、その手段を求める…あるいは、いずれ落ちるであろう地獄というところが、なぜかしら怖くてなんとかそうならないでおきたいともがく、そういう思いがあるはずだ。
そこに、迷いから離れる術、地獄行きの身であっても大丈夫な術があるぞと。
もうそのための(思惟も)願も行も終えて、その結実として南無阿弥陀仏を用意してあるぞと。
自分では何もできないことを知り尽くした上で、これを受け取っておくれよと。
自分の求めていたものが一番簡単な状態で用意されているというのに…
なにを値踏みする必要があるのだろうか。
そういう、謗って謗って迷い続けている姿だということも、微にいり細にいり教えてもらっている。
もう頭を下げるしかないんですけどね。
もう、こんなあてにできない自分自身に見切りをつけて、「南無」の声にこたえるしかないんですが。
まだそこで「南無にこたえたらいいんですね」と自分のありようを見てしまう。
こたえるしかないと聞いたなら、うんもすんもなく「南無」と頼むしかない。
その頼む先が、願も行も具足し、機も法も一体となった「南無阿弥陀仏」
しかし、そういう苦しんでいる人の姿を通してでしか、私自身が何を聞かせてもらっているかを見つめなおすことができないんですねぇ…。
ほんと、たか上がりして、何人もの人を踏みつけているのが私です。
月に一度、華光誌の誌上法話などをテキストに行われている法座だが、平日の昼間に行われることが多く、なかなか参加できない。
しかし、今月は祝日だったのでおまいりすることができた。
「誓願不思議」というご法話を輪読したのだが、今月はその途中から。
阿弥陀仏の用意した「誓願」は、この私の「後生の一大事」にむけて、足りることなく満たされたものが用意されている。
私のほうで、思いや考えを及ぼす余地がない…それが不・思議、思議できようがない。
という話である。
そのことを元に、参加者で味わいを述べたりしていくのだが、余計な思い(計らい)が必要ないといわれているのに、それを分からないとか、分かろうとするとか、自分のありようを問題にしだす。
「聞につきる」と先生がおしゃった上で、「自他力廃立」の話をされているのに、そのまま聞かずに心の動きを待ったり、追ったりしてしまう。
「南無」と弥陀のほうから頼んでいるのに、「南無」となれないわが身を探る。
元々、この私が仏法を聞こうとするのは、この苦しみ、迷いの世界からなんとか逃れたくて、その手段を求める…あるいは、いずれ落ちるであろう地獄というところが、なぜかしら怖くてなんとかそうならないでおきたいともがく、そういう思いがあるはずだ。
そこに、迷いから離れる術、地獄行きの身であっても大丈夫な術があるぞと。
もうそのための(思惟も)願も行も終えて、その結実として南無阿弥陀仏を用意してあるぞと。
自分では何もできないことを知り尽くした上で、これを受け取っておくれよと。
自分の求めていたものが一番簡単な状態で用意されているというのに…
なにを値踏みする必要があるのだろうか。
そういう、謗って謗って迷い続けている姿だということも、微にいり細にいり教えてもらっている。
もう頭を下げるしかないんですけどね。
もう、こんなあてにできない自分自身に見切りをつけて、「南無」の声にこたえるしかないんですが。
まだそこで「南無にこたえたらいいんですね」と自分のありようを見てしまう。
こたえるしかないと聞いたなら、うんもすんもなく「南無」と頼むしかない。
その頼む先が、願も行も具足し、機も法も一体となった「南無阿弥陀仏」
しかし、そういう苦しんでいる人の姿を通してでしか、私自身が何を聞かせてもらっているかを見つめなおすことができないんですねぇ…。
ほんと、たか上がりして、何人もの人を踏みつけているのが私です。