コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

真カ研月例会 9月

2008-09-18 16:47:16 | 真宗カウンセリング
真宗カウンセリング研究会の月例会でした。

7月は欠席、8月は月例会がお休みで、3ヶ月ぶりです。

相変わらず、家の事情などで開始時間には間に合わず、30分超遅れての参加です。

今回はロジャース氏の論文から「肯定的配慮」と「配慮の無条件性」という項目を輪読しての勉強会でした。

論文自体は「カウンセラーとクライアント」の関係についての記述なのですが、
「ひとりの人間として尊重する」
「どんな気持ちであろうと喜んで受け入れる」
「あるがまま」
というようなキーワードを聞くにつれ、弥陀の慈悲心に思いが寄っていきました。

こちらがどのような思いを持っていようとそれを否定せず、肯定的に受け止める。
そこにはなんら条件はなく、「もし…ならば」というものは一切介在しない。

普段の人間関係においてはとても難しいことですし、この「無条件で受け入れる」ということは私の心の動きからは想像できません。
常に「こうあってほしい」と「現実はこうだ」との差に苦しみ、葛藤しているのですから。
でも、それを「どんなお前であろうと、今すぐに飛び込んで来い」という弥陀の慈悲心を聞かせてもらっている身なれば、「無条件で肯定する」という温かみはわかります。
慈悲の場合は「配慮」という言葉はそぐわないですけどね。

では、無条件での「肯定的配慮」はできないのだろうか。
現実的に私を見てみると常にそうあるのは無理ですね。
家族との関係でも明らかに「こうあってほしい」という期待と評価から離れませんから。
しかし、そういう「配慮ができていない」ということをまず自覚すること、そして「肯定的配慮」を目指すものとして意識していくことはできます。

おそらく、「肯定的配慮をしなくちゃ」と力を入れ続けている間は、相手の話を聞くことからすら意識が離れているでしょうし、受容や共感から程遠い状態でしょうね。
むしろ、相手との関係が「あぁ、いい感じだ」と思えるときに、ほんの一瞬でも「無条件の肯定」ができているときなんだと思います。

あと、この「肯定的」という部分を、相手との関係ではなく自分自身の心の動きにも当てはめてみました。
いやぁ、肯定してないですねぇ…
「こうあって欲しい」「こうであったら」と常に今の自分に満足できずに、否定や葛藤に埋没しています。

ただ、そういう心の動きしかできない自分なんだということを「受け止める」ことは、カウンセリングを通じて成長させてもらえた部分でしょうか。

究極の「関係」作りを、阿弥陀仏を通して感じさせてもらえる…ただのカウンセリングではなく、真宗を心の中に内包した「真宗カウンセリング」ならではのものだと思いますし、故西光先生の提示してくださったもの、松岡先生の体感させてくださっているものがここにあるなと。

月例会の後、今月末のワークショップの打ち合わせをしました。
以前に広島や東京で行われたワークの話や、今後の話などを先生としている中で、いろいろと流れにのって動いていきたい気持ちが明確化されていきます。

まずは、今月末のワークですね。
楽しみです。