コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

京都支部座談会「聞き方について2」

2006-08-01 02:09:39 | コミュニケーションワーク
7月22日にあった集いです。この話題もすでに一週間以上経過してるんですが、私自身の振り返りおよび記録と言うことで。

この集まりの講師役を引き受けたときにはひとつの思いがありました。座談会・・・グループでの話し合い法座なんですが、求道者に対しての関わり方についてより良く出来ないかなと。
というのは、求道者なりに一生懸命自己開示しようとするのですが、”仏法”という正論によって「それでは駄目」という斬られ方をする場面を見受けるからです。実際、私自身が「法のため」としてそういう関わりをしてきましたからよく分かります。いや、カウンセリングを実践することでやっとわかりかけてきたところでしょうか。

また一方で、カウンセリングと言う言葉に嫌悪感を示す方も法座のグループには居られます。そういう方はそういう方で、発言者を大事にしようとする流れの中で、言いたいことがあっても「待ってあげてください」と止められることが多く、不満を持っておられます。

そこで発言者は否定や批判されることなく発言できることはどういう感じか、また他の人は発言者を尊重して「聞くことに徹する」感じはどういう感じかを体験してもらったらどうだろうかと考えました。

当日は普段の法座でご一緒するかた以外にも、遠方からのお参りや、カウンセリングでの仲間も参加してくださいました。思ったより多くの参加でちょっと最初の思惑通りは難しいかなと言う感じになりました。というのは、普段発言をさえぎられる方にゆったり話してもらおうと言う意図があったのですが、人数が多いとどうしても普段からしゃべれる人でないと口を開きづらいものがあるなと。

また、以前に行った「聞くということ」の第一回めからつながる事柄もあるので、前回の話をじっくりとすることにしたため、体験的な時間を少なくする必要もありました。

発言の尊重と、聞くことの意識化をするためにとった方法は、
○決まった時間(今回は7分間)発言者以外は一切口を挟まない。
○発言者に何らかの意見・感想を述べたい人は、あとから分かち合いの時間を確保する(今回は3分間)
○そのときに批判はせず、あくまで自分の感じたところで話する。
○沈黙も尊重し、待つ。
というルールでやってみようと言うことにしました。

結局二人の方が発言者になり、分かち合いでは3名の方が感想などを述べてくださいました。
その後、発言した方それぞれに感じを尋ねたのですが、「発言を尊重してもらい言い切れた感じがする」ということをおっしゃってくださいました。

その後、休憩を挟んで座談会にしたのですが、残り時間も少なかったこともあり自己紹介と感想を一回りするだけで時間になりました。ほんとうはこの時間で多くの人の感想を聞き、そこから膨らましていきたかったのですが、仕方ないですね。
始めてきてくださった方にも、雰囲気は味わってもらったかもしれませんが、なぜこういうことをしているかが上手く伝わったかどうかわかりませんし、お目当ての普段話辛さを感じている人にゆっくり時間を与えることも出来なかったのですが、「聞くことを意識する」ということはみなさん感じてくださったようなので、ぜひ近いうちにもう一度体験時間をじっくりしてみたいですね。

仏法的には、「人間的な尊重」のもうひとつ奥にある「求道」が大事なのですが、伝道の過程で人間同士の関わりあいがある以上、コミュニケーションを意識できるに越したことはないと思いますから。

今回の企画をしたことで、私の中の思いも整理され深まってきた気がします。もっとうまくやることもできたでしょうしね。
一番得したのは私自身ですね。


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2 コメント

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素敵な方法ですね。 (阿弥陀岳)
2006-08-09 05:12:58
MANUさん、また突然にこんにちは。



>発言の尊重と、聞くことの意識化をするためにとった方法は、

○決まった時間(今回は7分間)発言者以外は一切口を挟まない。

○発言者に何らかの意見・感想を述べたい人は、あとから分かち合いの時間を確保する(今回は3分間)

○そのときに批判はせず、あくまで自分の感じたところで話する。

○沈黙も尊重し、待つ。

というルールでやってみようと言うことにしました。



◎上記の方法、素敵な方法ですね。

 「傾聴」をテーマに、ほうざをもたれたということでしょうか?



 ぼくも仕事柄、研修会や講演を任されることが出てきたのですが、MANUさんのこのルールを参考にさせてもらいたいと思います。



>仏法的には、「人間的な尊重」のもうひとつ奥にある「求道」が大事なのですが、伝道の過程で人間同士の関わりあいがある以上、コミュニケーションを意識できるに越したことはないと思いますから。



◎MANUさんご指摘のこの箇所、日常の実践の中で常に問われているように感じます。



 現在進行中のカウンセリングの中で、少なくとも、3つのケースで「求道」というテーマに関わっています。

 それも、お念仏に沿っての仏教、その他、仏教のみならず、キリスト教、スピリチュアリズム、イスラム教などにも関わりながら・・・。

 勉強不足のぼく(殊にイスラム教については全くの不勉強)ですが、お念仏で行き着く場所(仏界(お浄土))と、キリスト教やイスラム教、それにイスラム教などで行き着く神界等、結局のところ統合的に「唯一の世界」なんだと体験的に受け止めさせてもらっています。



 カウンセラーとしても駆け出しなので、自己満足、自己欺瞞、そんな黒々とした部分を持ち合わせたままのぼくですが、そんなぼくを信じて、カウンセリングを受け続けてくださってくれているクライアントお一人お一人に支えられ、勇気付けられながら、成長させていただいている……そんな実感の今日この頃です。



 西光義敞先生の示された親鸞とカウンセリング(真宗カウンセリング)の世界を生きているつもりの自分ですが、独り善がりになりがちです。

 そんな時、MANUさんのこのようなブログの場に訪れさせてもらえると、全くの独り善がりにはならなくて済むような気がして、嬉しく思います。

 
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re: (MANU.)
2006-08-14 08:33:30
「阿弥陀岳」さん、ありがとうございます。

お返事遅くなり、申し訳ありません。

このブログを書いた後も、いろいろ思うところがあります。人との出会いや、本を読んで感じたこと、また法座で感じたことなど。



今、帰省中ですのでなかなかネット接続がままなりませんが(ここはISDNしかありません)逆にじっくり考えをまとめてみたいと思ってます。気長にお待ちくださいね。
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