土日の二日間、真宗カウンセリングワークショップが行われました。
もう13回目。
年に4回行われますから(休止の回もありますが)3年以上、他の方が世話役をされる回もありますが、10回くらいは参加してるでしょう(きっちり調べればいいのでしょうが)
当然のごとく、毎回参加者の顔ぶれが変われば、雰囲気も話題も変わります。
「何が起こるかわからない」のが楽しみであり、「何が起こっても大丈夫」なのが素敵で、私を成長させてくれます。
具体的な内容は書きませんが、今回も話題が豊富で、あっという間の二日間です。
そんななか、真宗カウンセリングをどう捉えるかのキーワードがいくつか現れてきました。
それは問いかけであり、回答であり、立ち位置を確認させてくれるものです。
「構成的エンカウターグループ」と「非構成的エンカウンターグループ」
「真宗の話をベースにする」と「誰でも参加できる話題を心がける」
答えを語るのは簡単ですが、そこは体感する中で気付きとなって現れるもの。
私自身は、こういう問いかけも含めて「ダルマ-ベースド-パーソン-センタード-アプローチ」ということを改めて味わっていました。
横に居る人の存在を感じる…それは肩の辺りから感じる温もりであったり、息遣いであったり。
前の人の存在を感じる…それはふと目があったときの表情であったり、少し前のめりになったときの”動いている”感じだったり。
発言があるだけではなく、”居る”という感覚。
空間と時間を共有している世界。
ひとつの宇宙とさえいえるもの。
また、”個”ということについても。
表に現れる現在の問題。
内省していくうちにたどり着く生育暦や自性。
それらを語ることで、見つめなおす自分自身。
決して、抱えて問題が解決するとは限らないけれど、その問題と自分の距離・位置が変わることで、新たな視点が開けてくる。
そんな「今・ここ・わたし」が出会うことで、あらゆる時間、あらゆる人がつながっていく感覚。
そういう時間・空間を創り上げるには、「安心」ということは大きなテーマになる。
もちろん、参加者一人一人への信頼ということも大事だ。
ただ、そういう感覚を超えたものが、”法”に根ざした「ありのままでいていい」という感覚。
これが、部屋中に満ち満ちている…それが根底にあるもの。
話題はきっかけにすぎず、その話題で動かされた自分自身を感じていくところで、自分自身を観、周りの人を観る。
こんな得がたい時間は他にないだろう。
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