日曜日は日曜礼拝でした。
月例なんですが、今月は会場が他の行事の都合で上手く日程が取れなかったようで、午前中だけ。
ご法話テーマは「ほとけさま」かな?
おみくじを題材に、神様と仏様の違いを楽しく話してくださいました。
おみくじの内容に一喜一憂したり、神社で願をかけたり…普通(なにをして普通と言うかはよく判りませんが)の家に生まれ育った私には、ずっと「ごくあたりまえ」のことでしたね。
ひとつの欲の心が満たされたら、さらに「より良く」という欲を追いかけていきます。
もし1000円手に入れて「満足」と思っていても、隣の人が2000円手に入れていたら自分の満足は消えて、ねたみの心になっちゃいますしね。
じゃあ、1億円手にしたら満足かって言うと、そりゃあ1000円との比較でなら大きな「満足感」でしょうが、となりが「1億1円」だったりすると「負けた」って気になっちゃうもんです。
もう満足の境目が無い。
しかも、神様へのお願い事ってのは「家内安全」だとか「縁談成就」だとか「学校合格」だとか。
自分のほうで何もせずに「神頼み」ってのは、因果の道理に反しますね。
上手くいかなかったときの責任を他に押し付けてしまう…
上手くいったら「神様のおかげです」って満足するかというと、一応お礼参りはしても次の願い事をしてしまう。
下手すれば、「願えばかなう」と自分で何かすることを放棄してしまったりね。
そのくせ「欲」だけは放棄しない。
こういう「欲」がかなうと「しあわせ」と感じるのかもしれないけれど、それは一時の「しあわせ」で、仏さまの願われている「しあわせ」はそういう一過性のものじゃない。
いや、そんな「しあわせ」にひたって喜んでいることを、むしろ戒められている。
根本の「欲の心」はおさまってませんよ、苦しみから逃れられてませんよと。
仏様が私に功徳してくださるのは、三世を貫き、この”迷い”の連鎖から離れる道。
本来はその悟り(迷いから離れる)を自分の「因」で起こさなければならないのを、ただ阿弥陀仏は、その自身の願と行によって、他力でお救い下さる。
うーん、一見すると「神頼み」が「仏頼み」になっただけじゃないかと…
いやいや、ここには大きな違いがあるのですが。
自分で出来ることを、代わりに「お願いします」、あるいは「ちょっと手助け願います」というものじゃなく、とことん「悟りの種がかけらも無い」私であると徹底的に突きつけられた上での「だからこそ願を立てた」という…。
ここが、ただ「お願いします」という「法」に頼むだけじゃない、「二種深信」がある。
と、子ども向けのお話では当然ここまではお話されていませんが、ご法話を通じて深めさせてもらいました。
あと、仏教に見る「神の国」「天国」の位置づけのお話も大事な部分ですが、今回はパス。
神を否定したり、仏と対立した位置に置こうというのじゃなく、また「神頼み」している人を下に見るのでもなく、「私にとっての”ほんとうのしあわせ”」を深く教えてもらったら、誰の話を聴くのかがハッキリしてきた…というところで。
ご法話の後、短い時間ながら座談会。
初めておいでくださった方も居られ、時間が短いのがもったいなかったけど…
土曜の法座と合わせて、濃い週末を過ごさせていただきました。
月例なんですが、今月は会場が他の行事の都合で上手く日程が取れなかったようで、午前中だけ。
ご法話テーマは「ほとけさま」かな?
おみくじを題材に、神様と仏様の違いを楽しく話してくださいました。
おみくじの内容に一喜一憂したり、神社で願をかけたり…普通(なにをして普通と言うかはよく判りませんが)の家に生まれ育った私には、ずっと「ごくあたりまえ」のことでしたね。
ひとつの欲の心が満たされたら、さらに「より良く」という欲を追いかけていきます。
もし1000円手に入れて「満足」と思っていても、隣の人が2000円手に入れていたら自分の満足は消えて、ねたみの心になっちゃいますしね。
じゃあ、1億円手にしたら満足かって言うと、そりゃあ1000円との比較でなら大きな「満足感」でしょうが、となりが「1億1円」だったりすると「負けた」って気になっちゃうもんです。
もう満足の境目が無い。
しかも、神様へのお願い事ってのは「家内安全」だとか「縁談成就」だとか「学校合格」だとか。
自分のほうで何もせずに「神頼み」ってのは、因果の道理に反しますね。
上手くいかなかったときの責任を他に押し付けてしまう…
上手くいったら「神様のおかげです」って満足するかというと、一応お礼参りはしても次の願い事をしてしまう。
下手すれば、「願えばかなう」と自分で何かすることを放棄してしまったりね。
そのくせ「欲」だけは放棄しない。
こういう「欲」がかなうと「しあわせ」と感じるのかもしれないけれど、それは一時の「しあわせ」で、仏さまの願われている「しあわせ」はそういう一過性のものじゃない。
いや、そんな「しあわせ」にひたって喜んでいることを、むしろ戒められている。
根本の「欲の心」はおさまってませんよ、苦しみから逃れられてませんよと。
仏様が私に功徳してくださるのは、三世を貫き、この”迷い”の連鎖から離れる道。
本来はその悟り(迷いから離れる)を自分の「因」で起こさなければならないのを、ただ阿弥陀仏は、その自身の願と行によって、他力でお救い下さる。
うーん、一見すると「神頼み」が「仏頼み」になっただけじゃないかと…
いやいや、ここには大きな違いがあるのですが。
自分で出来ることを、代わりに「お願いします」、あるいは「ちょっと手助け願います」というものじゃなく、とことん「悟りの種がかけらも無い」私であると徹底的に突きつけられた上での「だからこそ願を立てた」という…。
ここが、ただ「お願いします」という「法」に頼むだけじゃない、「二種深信」がある。
と、子ども向けのお話では当然ここまではお話されていませんが、ご法話を通じて深めさせてもらいました。
あと、仏教に見る「神の国」「天国」の位置づけのお話も大事な部分ですが、今回はパス。
神を否定したり、仏と対立した位置に置こうというのじゃなく、また「神頼み」している人を下に見るのでもなく、「私にとっての”ほんとうのしあわせ”」を深く教えてもらったら、誰の話を聴くのかがハッキリしてきた…というところで。
ご法話の後、短い時間ながら座談会。
初めておいでくださった方も居られ、時間が短いのがもったいなかったけど…
土曜の法座と合わせて、濃い週末を過ごさせていただきました。
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