このブログで何度か「がんばれ」という言葉に関する思いを書いた。
で、今日こんなニュースが目に留まった。
医師の「頑張れ」は違法=症状悪化と賠償命令-大阪地裁
自律神経失調症だった男性が、不用意な発言で症状が悪化し復職が遅れたとして、大阪府内の内科医に530万円の損害賠償を求めた訴訟で、大阪地裁の寺元義人裁判官は25日、「『頑張れ』などの発言は違法」として、60万円の支払いを命じた。
寺元裁判官は、内科医が「病気やない、甘えなんや」「薬を飲まずに頑張れ」などと力を込めて言ったことについて、「安易な激励や、自助努力を促すような言動で病状が悪化する危険性を避ける注意義務に違反した」と述べ、発言と病状悪化との因果関係を認めた。(2011/10/25-19:53)
SNSなどでこのニュースについてのコメントを見ていると、この患者に同情するあるいは自らの自律神経失調症について語るものと、患者を批判非難するものとがあった。
で、いろいろ思わされるのだが、やはり「出来る」人が「出来ない人」のことを理解できず、自分のものさし・常識で測って相手を責める言葉は、見ていて非常に辛いということ。
「がんばれ」と言われて、その叱咤激励を力に変えて結果を出す人も確かにいるだろう。
「がんばれ」と言う言葉だけでも、人によっては「今・ここ・わたし」を認めてもらえず、もっと「何かしなければ”いけない”」としか取れない人もいるのだ。
そういう考え方を認めず、「こっちは善意で励ましてるのに、なんでやらへんねん」と気持ちを押し付けるのは、ひとつの暴力だ。
また、今回の記事からいくと、相手の状況・特性に沿わない形での言葉掛けになっているようだ。
自律神経失調症について、今ここで深く触れることはしないが、その状況を受け入れず、ある意味無視していることは、医者としては困ったものだ。
たとえば、小学生という状況のものに、「時速150Kmの投球をしろ」とか「100mを9秒で走れ」という人がいたらどうだろう。
それをプロの野球選手や、陸上の指導者が言っていたなら「そんな無茶な!」と思わないだろうか。
「頑張れない」状況の人に「頑張れ」というのはそういうことだ。
「頑張ってほしい」のはこちらの思いの表明、「頑張れ」は思いの押し付け。
まぁ、この裁判のニュースに関しては、この文章だけでは読み取れないことが多いので、単純にこの医者を責めようとは思わないが、ちゃんと裁判で判決が出たのだから”非”はあったんだろう。
たとえば、震災でまだ現実が受け止められない状況の方に、「頑張れ」という言葉はどうなんだろう。
もちろん、それ励みにする人もいるだろう。
しかし、そういう言葉によって、「悲しみ」を「悲しみ」として味わうことが許されない、悲しんでいることを責められていると受け止める人もいるんだということ…。
今起こっている感情に甘んじていたっていいじゃないですか。
ここで言いたいのは、この裁判を話題を通じて、「自分の思う”こうだろう”を、相手に押し付けてることがありますよ」ってこと。
親子間でも結構ある事例ですよ。
過去に、「頑張れ」をとりあげたエントリーはこちら
同意してくださったのですね。
その一言がうれしいです。