今週の木曜日、小学校で「オセロ・将棋大会」というPTA行事があった。
私はPTA役員の中でもイベント担当なので中心でお手伝い…といっても昨年までの状況がわからないので、先輩の言うとおりにあれやこれや。
事前に細かく教えてもらってるはずなのに、あれが抜けこれが忘れで右往左往。
でもなんとか無事終了しました。
この大会の開会式で校長先生に一言挨拶をお願いする。
夏休み気分もあるだろうし、これから始まる楽しいイベントに子どもらはかなり落ち着きがない。
進行の私はとりあえず大きな声で(できるだけゆっくりと)「こっちに注目してくださーい」と始動口調で呼びかける。
ある程度静かになってこちらを向くが、まだざわついている。
そんな中、校長先生の挨拶の最初の一言が素敵だった。
「はい、まだ先生と目がつながってないお友達がいますよ~」
そう、全員が先生のほうをしっかり見てくれるまで話を始めない。
そしてゆっくりと子どもたちを見回して、目が合っているか確認する。
友達のほうを向いているとおしゃべりをしているが、先生のほうを向きながら横の友達とおしゃべりする器用なことはできないしね。
そうして、皆が先生のほうを向いて落ち着いたら挨拶を始められた。
まぁ、実際は挨拶が始まってから横を向いてしゃべりだす子らもいるんだけど、ちゃんとゆっくり対応したら静かになることはできるんだ。
当たり前のようなことかもしれないけれど、最近の子らの様子を見ていると一瞬だけでも静かになって注目するってのはなかなか難しいことだと思う。
いや、今は大人目線でえらそうなことを言っているが、自分も子どものころは常に落ち着いているなんてできているはずがない。
しかったり、大声で命令するだけがやり方じゃなくて、こちら側からゆったりと相手をする…
そうすれば相手も応えてくれるはずだ。
勉強させていただきました。
私はPTA役員の中でもイベント担当なので中心でお手伝い…といっても昨年までの状況がわからないので、先輩の言うとおりにあれやこれや。
事前に細かく教えてもらってるはずなのに、あれが抜けこれが忘れで右往左往。
でもなんとか無事終了しました。
この大会の開会式で校長先生に一言挨拶をお願いする。
夏休み気分もあるだろうし、これから始まる楽しいイベントに子どもらはかなり落ち着きがない。
進行の私はとりあえず大きな声で(できるだけゆっくりと)「こっちに注目してくださーい」と始動口調で呼びかける。
ある程度静かになってこちらを向くが、まだざわついている。
そんな中、校長先生の挨拶の最初の一言が素敵だった。
「はい、まだ先生と目がつながってないお友達がいますよ~」
そう、全員が先生のほうをしっかり見てくれるまで話を始めない。
そしてゆっくりと子どもたちを見回して、目が合っているか確認する。
友達のほうを向いているとおしゃべりをしているが、先生のほうを向きながら横の友達とおしゃべりする器用なことはできないしね。
そうして、皆が先生のほうを向いて落ち着いたら挨拶を始められた。
まぁ、実際は挨拶が始まってから横を向いてしゃべりだす子らもいるんだけど、ちゃんとゆっくり対応したら静かになることはできるんだ。
当たり前のようなことかもしれないけれど、最近の子らの様子を見ていると一瞬だけでも静かになって注目するってのはなかなか難しいことだと思う。
いや、今は大人目線でえらそうなことを言っているが、自分も子どものころは常に落ち着いているなんてできているはずがない。
しかったり、大声で命令するだけがやり方じゃなくて、こちら側からゆったりと相手をする…
そうすれば相手も応えてくれるはずだ。
勉強させていただきました。
南無阿弥陀仏では物欲も食欲も独占欲も性欲も満ち足りることはない。
むしろ南無阿弥陀仏に照らされて、そんな欲しかないことを思い知らされる。
六字のいわれという示談のテープで悟朗先生が求道者に聞かれます。「交通事故に遭って植物人間になっても喜べる? そうなっても間違いなく、お救いに預かれる?」と。
だから、欲は欲で結構なのですが、往生の確信が崩れないか、疑いがない状態でいられるか、ということですよね?
≫そんな欲だらけの身を、「清らかになってこ い」じゃなくて、「そのままでいい」という 理由、仕組み、手立てが「南無阿弥陀仏」と なっていると聞かされている。
こちら側はどこまで言っても「ほんまかい な」でしかないんだけど、そんな程度でしか 計れない愚かな姿をも見越して成就されてい るんだから、その「満ち足り方」は半端じゃ ない。
(半端だったら足りては居ないわなぁ)
う~ん…MANUさんは未信なんですよね?
どうして、そんな風にいえるんですか。
僕はどこか素直に宗教を受け入れられない心があります。今日も本願寺の司教の法座に出てきたんですけど、「天体望遠鏡で覗いても浄土なんかないじゃないか。宇宙飛行士が宇宙に出ても仏なんかいないじゃないか。」と世間一般のヤジを含めて話されてました。
じゃ、後生は?
僕はこの問題について、意識(唯識)の学問を
探求しています。もしくはクローンで不死が実現するか、どちらかだと思う。
意識についてはヘミシンクという瞑想技術で死後世界へ幽体離脱できる。あくまで仮説ですけど、僕はこっちの方に興味があります。
僕はどうも根性が曲がっているようで、悟朗先生の示談が催眠術のように見えるんです。また、最近、S田さんのモノマネをしても意味ないじゃんと思うようになってきた。
阿弥陀仏の救いというのは全員に向けられるものですが、宿善の厚薄、宿善開発の遅い、速いがあるのでしょうね。すべての人が救われる教えではあるけれども。そもそも、人間の一生など、五劫という時間から考えたら、点みたいなもの。そんな短い期間で聞き開けるはずがないんです。
今日は久しぶりの神戸でショートパンツの女の子に悩まされっぱなしの徒歩でありました。意業(心)を犯しっぱなしでありました。
「阿波の庄松」さん、勝手に改ざんしてごめんなさい。記事の内容に出てきたり本人がコメントなどで名乗ってる場合は問題にしないのですが、それ以外の個人名・団体名はイニシャルでお願いしますね。
管理人として、そういう場合はこちらで修正させてもらいますが、書き込み時点で意識してくださると助かります。
なぜそうするかということや、コメントに対するレスは改めて。
今から出かけないといけないので、夜までにレスします。
レスが遅くなりました。
>だから、欲は欲で結構なのですが、往生の確信が崩れないか、
>疑いがない状態でいられるか、ということですよね?
往生の確信…ということになると、私にはないですねぇ。
地獄一定のほうは認める認めないを超えた「事実」として見せ付けられるんで、それを確信と呼んでもいいでしょう。
で、往生の確信というか、自分のほうに往生できる要素は塵もない。
そんなわたしに「往生の要素」が用意されて、「任せろ」と呼ばれている。
そこに疑いがあるかどうかですよね。
私に関しては、そこの疑いが「捨てさせられた」
いや、疑っても良いんですが(笑)なんせ地獄一定が疑いのないものなので、浮かぶ瀬がないんですよね。
疑うも何も、後生に向けて私にできることは何もない。
やってることは、あいも変わらず地獄生きの種つくりばかり。
>う~ん…MANUさんは未信なんですよね?
>どうして、そんな風にいえるんですか。
信・未信なんて「自称」でどうとでもなるし、人の信心を見通したり沙汰する神通力もないから、「わが信」も「人の信」も依るものじゃないしね。
”そんな風”に言えるのは、言わせるだけのものが私のほうじゃなくて他力のほうにあるから…かな。
>阿弥陀仏の救いというのは全員に向けられるものですが、宿善の厚薄、
>宿善開発の遅い、速いがあるのでしょうね。すべての人が救われる
>教えではあるけれども。そもそも、人間の一生など、五劫という時間から
>考えたら、点みたいなもの。そんな短い期間で聞き開けるはずがないんです。
そうですね、宿善の厚薄・遅早は事実として”ある”でしょうね。
ただ、私のほうで「わたしは薄いから」とか「わたしは遅いから」なんてわからない。
そういう台詞は、なにかに”理由”をつけて、自分の「救われてない感」を慰めようとすることじゃないかなと思います。
あるいは「お前の宿善を厚くするにはこうしなさい」なんていう”何か”に利用されるときに言われることぐらいでしょうかね。
おっしゃるとおり人間の一生なんて点みたいなものですから、そんな間にできることはたかが知れてますよ。
しかし、五劫十劫かけて「施されてきている」ものがありますからね。
点であってもこれだけの期間があれば、そうとうのものが積まれていることでしょう。
ただ、私が積んだものは何一つありませんけどね。
「宿善がたらんなぁ…」というのは、私や目の前の師が言っていることではなく、「弥陀の懺悔」なんでしょうね。
むこうのほうで頭を下げておられる。
>意業(心)を犯しっぱなしでありました。
往生の種は作れんけど、地獄一定の種は事実として…ね。
比較してもどうにもならんけど、私の意業も「阿波の庄松」さんに負けず劣らずですよ。
そりゃ、それをそのままに見る力があったらえらいことになっとります。
自分の意見を自由に話することを妨げることは基本的にしません。
ただ相手のあることになると一方の意見だけでは不公平なので、あいてを特定できないようにしたいと思ってます。
私自身、コメントや書き込みの一部を取り上げられて、「高橋はこう言っている」とイメージ操作されたり、「K会の考え方はこうだ」みたいに利用されることが多々あり、困ったことがあります。
それを恐れる余り、連日数時間かけて話題にされそうなところをチェックしまくるという不毛な時間を費やさざるをえない時期もありました。
知らないところで名前を出だされるとあまり気持ちのいいものじゃないので、このブログのコメントでも基本は個人名・団体名はイニシャルでお願いしますね。
ただ、ご法話やお説教などの話題に感化されたことなどを書く場合、その先生の名前などはそのままにしたいと思ってます。
(問題があるようなら受け付けますので、ご一報ください)
とはいえ、私自身徹底できてないときもあると思いますので、メールなどでご指摘くださいね。
manu.takahashi*nifty.ne.jp (*を@に置き換えてください)