コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

はちす よいはな きれいなおはな

2009-07-05 23:42:54 | 真宗

蓮の花がきれいな季節です。
毎年、お盆の帰省時に新潟の高田城で咲き誇る蓮を見るのですが、京都だと今頃からが見ごろ。
ほんの近所の東寺の中に蓮池がありますので、時々散歩時に見かけます。
でも、ほとんどが散歩したときに「あぁ、咲いてるんだ」って気がつく程度なので、今年は意識して「蓮を見に、散歩をしよう」ときめて、午前中から子どもらをつれて出かけました。(いつも休日の散歩は午後から夕方が多いですから)
さすがに、昼前後は暑かったです。
ピークには少し早いようで、ほとんどはつぼみでしたが、何本かはきれいに咲いていました。

蓮の花というと、朝方にポンッと咲いて、昼ごろにはもう閉じる言われてますね。

そして、仏教では蓮はいろいろな意味に使われています。

よく見るところでは、お釈迦様が乗っておられるのが蓮の花。
蓮台と呼ばれていますね。
瞑想される絵でも蓮の花の上に乗っておられます。

お正信偈では「得至蓮華蔵世界」と使われ、阿弥陀仏のお浄土のことをことを「蓮華蔵世界」としていますね。

また「白蓮華」=「分陀利華」(ぶんだりけ)として「観無量寿経」の中で「若し念仏する者は当に知るべし、此の人はこれ人中の分陀利華なり」と書かれ、汚い泥の中から清らかに咲く「白蓮華」をたとえに、念仏者を表されています。
でもこの「人中の分陀利華」ってことは、念仏者になれない人々を汚泥としてるってことですかね。
いや、これはそういう人を批判していることではなく、自分自身を振り返ったときに、ドロドロの清らかなものが何も無いこの私の中から、念仏の白い蓮が咲く様を言い表していると味わっています。
決して自分で種をまくことなんか無いですよね。
仏願の「種」によって、汚泥の中から華が咲く。
私の出来ることは悪因悪果でしかないんですが、そんな私がお浄土に参らせていただくのは自分の力では決して無く、仏願という「他因」によって成立してもらっていると言うことですね。
ここを取り違えて、いつまでも「どうすれば」と方法論を求めることが、ますます泥を深めている姿なんだと…

余談ですが、この「人中の分陀利華」をめぐってネットでいろいろなお話を読ませていただいていると「世間の汚れに穢れず、お念仏を称えて泥に咲く白蓮華のように清らかな人生をすごしたい」的なものにいくつか出会ったりしました。
いや、別にいいんですが…

あと、妙好人のことを「人中の分陀利華」と言われていますね。
「妙好人」のことは、増井信先生の「妙好人の信心」というご法話が判りやすく話してくださってますので、ぜひ一度お読みになってください。
「妙好人の信心」


と、蓮の華を見に行ったことで、いろいろなことに思いが馳せることになりました。
うん、これがご縁でしょうね。

(知ってる人はご存知でしょうが、そりゃあもう、私は「蓮の華」とは切っても切れないものがありますから…笑)

お池に はちすのお花がさいた
はちす よい花 きれいなお花
どのこにあげよ だれにやろ
はちすのお花を
もらうこは もらうこは
みほとけさまの かわいいこ
   「はちす」


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
 (かりもん)
2009-07-06 21:51:46
 同じころ、ぼくも広島の同人のお宅で、はちすを眺めていました。
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re:蓮 (MANU.)
2009-07-06 23:41:28
「かりもん」さん、どーもです。
>はちすを眺めていました。
ブログで排見しました。
そちらは本当の白蓮華ですね。
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