コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

信心について…再び

2010-01-17 02:54:21 | 真宗
昨日アップした記事にコメントをいただき、それに応えようと書いていたら少し長くなったので、せっかくなんで記事としてアップします。

>言い換えれば「信心」は称名念仏の付属物。
ということに疑問をいただいたことで、私自身もう一度そこについて書いてみたいと思いました。

信心と念仏を分けて考えると、それは段階を踏むいただき方で、阿弥陀仏の「南無」に応えるものではないと思えます。
信心をいただいてから念仏する…
それは信前の念仏を否定したりする考え方から起こっていることが多いようですね。
信心をはっきりさせてから報恩の念仏を称えるという。

でも、そこがこだわりどころの方も多い様ですので、もう一度言葉にしてみます。

信心ということを考えると、「そこに願も行も具足しているよ」と差し出された南無阿弥陀仏を、称えるということはそのことを了解している…逆に言えば、そのこと抜きに南無阿弥陀仏の意味も意義もないのですから。
信じないで称えているのは南無阿弥陀仏に意味があることを疑っているのですから。

じゃぁ、どうして疑うのか…
私に南無阿弥陀仏が必要だと知らされていない。
私に必要なのが南無阿弥陀仏と知らされていない。

ここにポイントがあって、この知らされるというのは「私の想像しえる範囲で、私の求めるものに合った形で知る」ということを待っているんじゃないでしょうか。
阿弥陀様のほうの「知らせる」というのは、私の望んでいるものと違っています。
だから、せっかく称えさせてもらっている南無阿弥陀仏なのに、「これは違う」と”判断”してしまう…疑いですね。

たとえ話なんでニュアンスだけ受け取ってください。

身体に不調があるとき、医者から薬を処方されます。
人によっては、どんな薬かその成分や効能を徹底的に調べないと信用して飲まない人もいるかもしれません。
また別の人は薬じゃなく医者を信用して飲む人も居るでしょう。
でも多くの人は、信用するしないを考える前に、言われるままに飲んじゃってる。
でもよくよく考えると、信用するしないを問うてないだけで、飲んでるって事は「信用する」ことも込みなんですね。
結果を見れば「信用していた」ということですね。


私自身の、口から南無阿弥陀仏が飛び出すという”体験”がありながら、その飛び出して念仏は「自力か他力か」とこだわっていた時期がありました。
自分で南無阿弥陀仏を値踏みするというか、判断しようとしていたんですね。
わかってからでないといくら称えても駄目だと。
しかし、ご縁に触れると勝手に飛び出してくる。
本物か偽者か…私に判断する力があると思ってたんですね。
それが間違い。
南無阿弥陀仏は本物なのに、それを判断する力がない。
そこに見切りをつけさせてもらったんですね。
こんな私でも、そこから飛び出る「南無阿弥陀仏」に功徳があり力がある。
私の力は何ひとつ必要じゃなかった…というか役に立つものはなかった。

わが名を称えよ…

南無阿弥陀仏

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6 コメント

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「知らされる」とは? (月夜)
2010-01-17 17:09:01
MANU.さん,お答えいただきありがとうございました。

>私に南無阿弥陀仏が必要だと知らされていない。
>この知らされるというのは「私の想像しえる範囲で、私の求めるものに合った形で知る」ということを待っているんじゃないでしょうか。

私の方からは,自分に南無阿弥陀仏が必要だとは思えないな気がしてきました。私の頭で南無阿弥陀仏を分かろう理解しよう,それができたら満足できる…。そうなることを求めたり待っていたりすることがそもそもの間違いだということでしょうか。

私の方から言えば何も分からない。喜びも満足もない。聞く耳もない。念仏称える心もない。
しかし阿弥陀仏の方から言うと,そんな奴だからこそお前には南無阿弥陀仏が必要だと思われ,お前の口から念仏称えさせようと働きかけ,称えることができたと喜んでおられるのでしょうか。
このように書きながら,これも結局は立場を変えて自分が想像しているような感じです。
「知らされる」が分かりません。

>私自身の、口から南無阿弥陀仏が飛び出すという”体験”がありながら…

以前から念仏を称えることはありましたし今も称えますが,それらの一つ一つが“体験”なのでしょうか。疑いはたとえ晴れないまでも,やはり凡夫の口から南無阿弥陀仏が出るということ自体があり得ないという意味での体験ということでしょうか。
また,薬の譬えのように自分の自覚は関係なくても,称えるということは「信用していた」「信じていた」ということにどこかでなる,そういう変わり目があるということでしょうか。


よろしくお願いします。
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re:「知らされる」とは? (MANU.)
2010-01-19 03:13:52
「月夜」さん、どーもです。

>私の頭で南無阿弥陀仏を分かろう理解しよう,それができたら満足できる…。
そうですね、私が満足したい…それは私の求めているものですね。

>しかし阿弥陀仏の方から言うと,そんな奴だからこそお前には南無阿弥陀仏が
>必要だと思われ,お前の口から念仏称えさせようと働きかけ,称えることが
>できたと喜んでおられるのでしょうか
そうですね。

>このように書きながら,これも結局は立場を変えて自分が想像しているような感じです。
誰にも何にも教えられずに、そういうことを自分で想像できましたか?
何らかの形で、ご縁を通して聞かされ気づかされしてきたことを「自分で想像している」と決め付けてしまうってことはないでしょうか。

>「知らされる」が分かりません。
ここは具体的に「知らされている」ことを内省することが大事だと教えてもらっています。
そのひとつは「南無阿弥陀仏」が作られないといけなかった、「私が迷っている」因ですね。
やはり「罪悪観」ということになります。
自分がそれを罪悪と思う思わないではなく、行っていることを振り返ってみる。
全部の罪悪を知ろうなんてのは無理です。
今日一日、いや半日でも行ってきた「身・口・意」で殺してきたもの。
何かひとつ…たとえば夕食を食べるためにかかってきた「手間・おかげ」を。
わたしはそれらを「生きるためにあたりまえ」と判断してしまいますが、私の判断抜きに「何をしてきている」を見つめてみることです。
その一つ一つが「知らされている」ことじゃないでしょうか。

称名のことはまた別にしましょう。
私もお世話になっている方のブログにも「称名」のことをわかりやすく書いてくださってますのでご紹介します。

「畢竟依を帰命せよ」
http://gsaiko.air-nifty.com/amita/2010/01/post-b786.html
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南無阿弥陀仏が必要な理由 (月夜)
2010-01-19 20:15:53
MANU.さん,いつもやさしくお答えいただきありがとうございます。

これまでのお育てによりようやく気付かされたことであるかもしれないことを「自分で想像している」と決め付けていたように思います。

また,生きるためとはいえ食欲を満たすために一体どれほどの命を奪ってきたことか計り知れません。私の判断抜きに「これまで何をしてきたか,何をしているか」ということを見つめると,罪業しかありません。こんな者の行き先は苦しみの世界,これまで続いてきた迷いの世界でしかないと思います。

このような悪業罪業のかたまりが「私が迷っている」因なのですね。それがそのまま南無阿弥陀仏が作られないといけなかった因なのですね。

やはり私には南無阿弥陀仏が必要だと思います。南無阿弥陀仏が必要だと思わない私だからこそ南無阿弥陀仏しかないと思います。
だから知らず知らずのうちに南無阿弥陀仏が私の口から出るようになったのでしょうか。

早く南無阿弥陀仏と一体にならせて頂きたいと思います。


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Unknown (relax)
2010-01-21 22:49:03

>しかし、ご縁に触れると勝手に飛び出してくる。
それはそうなんですけど・・・
>そこに見切りをつけさせてもらったんですね。
判断する力はないと思いながら、はっきりしたいと思うのはやはりその力があると思ってることになってしまうんですか?見切りをつけるのではなくつけさせてもらうのなら私には何も出来ないということだし、あ~またいつもの堂々巡りです。
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re:南無阿弥陀仏が必要な理由 (MANU.)
2010-01-22 01:56:08
「月夜」さん、どーもです。
レスが遅くなりました。

>「自分で想像している」と決め付けていたように思います。
受け取ってもらえてうれしいです。
自分ではそうと知らずに「決め付ける」ことがあった…そう聞かせてもらうことは、自分の力では無理ですよね。

>私の判断抜きに「これまで何をしてきたか,何をしているか」ということを
>見つめると,罪業しかありません。

>このような悪業罪業のかたまりが「私が迷っている」因なのですね。
>それがそのまま南無阿弥陀仏が作られないといけなかった因なのですね。
ほんとうに、このことひとつ気づくように育てられるまでに計り知れないお手間があったんだと思います。

>やはり私には南無阿弥陀仏が必要だと思います。
>南無阿弥陀仏が必要だと思わない私だからこそ南無阿弥陀仏しかないと思います。
よくこのことにたどり着いてくださいました。
「任せておくれ」のお心は、私が「いる・いらない」などというところでしか動けないのを見抜いて、先に用意してくださってます。
かならずいつか「南無阿弥陀仏しかない」と言ってくれることを、向こうが信じて下さっている。

「南無」には、阿弥陀様のほうからの「頼む」も含まれていますから。

>だから知らず知らずのうちに南無阿弥陀仏が私の口から出るようになったのでしょうか。
私のほうには称える力も心もないのですから。

>早く南無阿弥陀仏と一体にならせて頂きたいと思います。
いつでもOKです。
一体という実感は人それぞれです。
「尻にひいていたからわからなかった」
「大きすぎてわからなかった」
「ぴったり自分と同じだからわからなかった」
いろんな方の感嘆の言葉を聞かせてもらいました。
そのすべてが、そのときに一体となったのではなく、一体になってくださっていたのを知らなかったというものです。

一緒に称えさせてもらいましょう。

南無阿弥陀仏
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re:Unknown (MANU.)
2010-01-22 02:07:47
「relax」さん、どーもです。

>判断する力はないと思いながら、はっきりしたいと思うのはやはり
>その力があると思ってることになってしまうんですか?
私の記事を読んで思われたことなんですね。
「relax」の中から言葉になってきたことが

判断する力はないと思う
はっきりしたいと思う
その力があると思ってること?

そのことに○か×かをつけていくのは簡単なことです。
でもそこに○×つけられて「じゃあ、そう思うのはやめよう」とできるかどうか…ってことですね。

思っちゃうものは思っちゃう。
変われといわれて変われる私じゃない。
堂々巡りするなと言われても、気がついたら堂々巡りしてる。

それが「relax」さんなんですね。
そんなことは、もう当にお見通しで、「だからこそお目当て」とおっしゃる方がいる。

私にとっては、それは「ころころ変わる私の心」を追いかけることからの解放でした。
それを「見切りをつけさせてもらった」という言葉にしています。
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