一昨年から真宗カウンセリングを学び始めたのですが、直接ではないにしろすでに深く学んでいる先達の態度などを通じて「真宗カウンセリング」に触れてきていたのは以前にも書いたことだと思います。
そんな私が、今、真宗カウンセリングのお膝元の京都で、学んだり体験したりすることができているのですが、多くの先達が今どうされているのかあまり知らなかったりします。
昨日書いた「流れ」というところで、私自身の流れの中に「真宗カウンセリング」の流れが引き合いうねりを起こしているのを感じています。
「真宗カウンセリング」という言葉がそこについていようがいまいが、その流れを引いている、あるいは汲んでいる動きはいっぱいあるんでしょうね。
私が知っているだけでも、エンカウンターのグループワークをされている方や、ミニカンの研修をされている方、また「Dharma-based Person-centered Approach」(仏法を根底にした人間尊重のアプローチ)ということを学習したり実践するワークをされている方など、全国に広がっているようです。
私はよく、自分の「役割」ということを考えます。
他のところで十分成り立っているものを、無理に私が動かなくとも、そういう動きとつながっていることで成立しますから、そこには私の役割はなく、他の誰かができないことを私ができるならそこに「役割」があるんだろうなと。
しかし、欲張りな私は、あちこち自分で動きたくなり、結果がんじがらめになっちゃう、と。
でも、他の動きをまったく知らないままだとそれは良くない。
やはり自分で体験・実践したものでないと、重みがないですからね。
基本的に、自分に自信がないタイプの輩ですので、かなり”よいしょ”してもらわないと腰が上がらないのですが、手探りながらもこうしてブログで動いてみたり、ワークの世話役を受けてみたりと、ちょっと流れに乗りかけています。
まぁ、自信はないままですが。
いろんな形で背中を押しだされ、流れのままに任せてみましょうか。
ただ、こういう気持ちになるたびに何らかのネガティブな出来事が起こって、また殻に閉じこもってしまうのですがね。
気持ちの上でひとつの「開く」きっかけになった「ワールドワーク」から1年。
同時に「閉じる」ことになった出来事からも1年です。
別に1年だからキリがいいとか言うことはないのですが、かってにそういうことをきっかけにして、動き出す言い訳にしてみましょうか。
何かを選び何かを捨てる…まぁ仏法上でははっきりしますが、生きていくというところではそうはっきりさせず、「今・ここ・私」という押さえの上でファジーに構えて見ましょう。
八方美人の私ということも変わらないですし、自分から動きたくない私だし、誘いにも素直になれないし…でも、流れに乗るならできるんじゃないかと。
ワークの世話役や、身近な人たちとの関わりで実践し、経験をつみ、備えておきましょうか。
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