先日の日曜日、華光会の日曜礼拝で法話を担当しました。
担当の話をもらって1月半ほど、テーマにすることは早くから決めていましたが、どこまで話しようかと結構悩みました。
子ども向けだからあまり難しくならないように、でも道徳の話で終わるのではなく、しっかりと法の話として…結構難しいものです。
内容はホームページのコラムにアップしました
http://homepage1.nifty.com/MANU/korams/k080701.htm
今日は間に合わなかったけど、黒板に書いたイラストも近々加えようと思っています。
まだ小学校にも行っていない小さな子も結構いますから、あまり怖がるようなところで終わらせるのも考え物なので、まずは「食べ物じゃなく、生き物の命をいただいている」ということを中心に。
でも、そのことで「じゃあ、怖いから食べない」と言うことになると困るので「お皿に乗っているものはもうう元には戻らない」ということを押さえとして、「好き嫌いしないで、ありがたくいただく」ということまで。
あと、すぐには理解できなくても「いのちをいただいた数だけ、自分もいのちを奪われる」ことを通して「因果の道理」を。
本当は、その「いただいているいのち」は仏様が投げ出してくださった命だと言うことも伝えたかったけど、食べた命が「生き物のいのち」と「ほとけさまのいのち」と二通り説明されたらこんがらがるんじゃないかと思い、まずここは「いのちを奪っている」というところを聞いてほしいと思った。
法話の後の座談会は、私は大人の座談会に参加したので、子どもの反応がどうだったか詳しくわかりませんが、少なくとも私の息子は「食べた分だけ食べられる」ということにショックを受けていたようです。
大人の方々も、何度も耳にしているだろう事をあらためて自分に引き寄せて聞いてくださっていたようで、話をさせていただいた甲斐がありました。
その大人の座談会では、そうやっていのちをいただいてまでして「今ここにいる意味」と言うところで話が進み、ありがたいご縁になりました。
このことは、また改めて書くことがあると思います。
今日は、伝動研究会に久々に参加させていただき、話の流れで「ご恩」の三角の絵の話になりました。
自分を内省していくことで「ご恩」の深さが知らされるとともに、「罪悪」と言うことが知れてきます。
そうすると三角はどんどん大きくなるのですが、そうすると底辺も大きくなる。
ただ三角が大きいと知るだけならば、ご恩や縁のところでの味わいになるのですが、この三角形(罪悪)をまるまる受け止めてくださる阿弥陀様の慈悲を考えると、三角が大きければ大きいほどその慈悲の深さが知れてきます。
逆に言うと、軽い内省でわかったつもりになっていると、その慈悲心も軽く納めてしまう。
深く内省することが大事だと言うことをあらためて教えていただきました。
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