今年も残すところ後10日。
今日、娘の中学校が「終業式で明日からお休み」と聞いたことで、ますます押し迫った感じに襲われた。
今年に入って、仕事の面で多少変化があった。
そのことで、圧倒的に影響を受けたのがブログを書く時間。
このブログもそうだし、もう1つやってる音楽ブログなんかもっと顕著だ。
音楽ブログの中心はその日に聞いた音楽のレビューなんだけれど、ゆっくり音楽を聴きながらレビューを打ち込んでる時間がない。
と、相変わらず、ことあるごとに言い訳じみてるよなぁと。
そんな状況の中でも、人との出会いなど心潤される出来事(まれに煩わされることも)には満ち溢れている。
そう、ただ時間に追われて心を無くしていることはなく、それなりに活きている感じだ。
ブログでは報告が遅れているが、エンカウンターグループが全10回を終え、先週にはその打ち上げ会もあった。
10週にわたり、参加者が思いつくままに話題を振りまき、それぞれがそれぞれのところで刺激を受けて、それを言葉にしていく。
何気ない集まりでありながら、この”自由に”ということが守られていることはそうそうあるもんではないことを感じている。
自分の言いたいこと と 相手の言いたいこと
この双方を尊重すると言うことはとても難しい。
たいていの場合は、相手の言いたいことに刺激を受けた「自分の言いたいこと」を発言して、相手の話をとってしまう。
あるいは、相手を尊重すると言う名目の中で、「自分の言いたいこと」を押し殺してしまう。
それを、非構成的なグループの中で、唯一「尊重」というベーシックな約束によって自由に泳ぎまわることを許される。
その「尊重」の元になるのは、ファシリテーターに対する信頼であり、参加者各位への信頼である。
この参加者への信頼は、やはり最初から生まれているのではなく、繰り返し出会い、言葉を交わし、表情を垣間見ることで積み重ねられてきたもの。
私の場合は、おかげさまでこういう場を何度か経験させてもらっているから、比較的早くから”素”でいさせてもらえる。
変に思われたら変に思われたでいいし、否定的に取られたら否定的に取られても良い。
どう見られようと、その瞬間瞬間の私自身に他ならない。
なにより、仏法によって根ざされた「許されている」感覚に守られている。
「そのままの姿がお前の姿」
ここに、単なる人間的な関わりを超えた、「ダルマ・ベースド・パーソン・センタード・アプローチ」がある。
お酒を飲みながらの打ち上げの場でさえ、一人一人の姿、話題がいとおしくなる。
そんな素敵なメンバーに恵まれた、10週間だった。
年明けには、来年度の様々な研修会・ワークの予定を検討していく。
「ダルマ・ベースド・パーソン・センタード・アプローチ」に根ざした、真宗カウンセリングの歩みが、来年度には50年を迎える。
その歴史の長さや、参加者の多さが大事なんじゃない。
今、私がこの流れに乗らせてもらっていることが、何より大事なことだ。
いまここの私一人のために、50年の歳月がある。
今年もしっかり聞法していきたいと思います。
今は主に加茂仰順のテープを聞いています。
ネット上では親鸞会を批判するサイトばかり目立ち、それを読んでいて嫌な気持ちになります。華光会だって金集め、人集めこそ、していないけれど、座談における暴言で人を傷つけ、トラウマにし、二度と華光会館に来れないようにしていることは似たようなもんでしょう。過去において、そんな人が何人いたことか…。精神的な傷はずっと残ります。
だから、私は誌友も辞めました。しかし、この教えからは離れるつもりはなく、主にテープ聴聞をしていこうと思っています。もう亡くなられた方が多いですが、善知識はたくさんおられますからね。
僕から見れば、MANU.さんは何故、京都という最高の環境に住んでいながら、他の先生の話を聞かないのか、不思議なんです。それは失礼ながら、やはり、組織依存になられている証拠だと思います。
過去ログにおいて、華光会の歴史、その苦労を書かれていましたが、私にとって、そんなものはどうでもいいことです。大切なのは阿弥陀様の苦労であり、宗教団体ではないですから。
妙好人だって、特定の宗教団体で聴聞していたわけではないですよ。その人が縁があった師について聞いていたんだし、牛に荷物を乗せる様子から開眼した例もある。
そういう風に自分と阿弥陀仏だと思うんですけどね。
新年あけましたね。
>組織依存になられている証拠だと思います
「阿波の庄松」さんにはそう見えるんですね。
>大切なのは阿弥陀様の苦労であり
そのとおりだと私も思います。
>その人が縁があった師について聞いていたんだし、牛に荷物を乗せる様子から開眼した例もある。
そうですよね。
だからますます、私は私に縁があった師を通じて聞かせてもらえるんでしょうね。
他の先生に縁があれば、そういう先生から聞かせてもらえるでしょうし。
その”縁”が私の場合華光の先生になりますから、他に聞きに行くと言う”行動”を必要としてないのかもしれませんね。
私にとっては、組織への依存ではなく、縁のもんだいですね。
もしかしたら他の方からは「あの先生はどうなの?」と見えていたとしても、それこそ「牛に荷物を乗せる様子から開眼」もあるのですから、その先生の人柄や話の内容ではなく、その出会いをご縁として「阿弥陀仏」に出会わせていただけるのですもんね。
>そういう風に自分と阿弥陀仏だと思うんですけどね。
「阿波の庄松」さんにそういっていただいて、ますます私は「よいご縁」にあわせていただいていると自信がわいてきました。
南無阿弥陀仏
「親鸞会以外で聞く必要はない。」
「高森先生以外の先生から聞く必要はない。」と。
それで彼らは親鸞会からは出てこない。
華光会から出てこない貴方と同じじゃないですか。
福井のSさんには責任があると思うんです。あれだけ、堂々と私は信心決定しましたとネットで公言して、親鸞会から華光会に大量移動させて、誰か、他人に信を取らせたんですか?
(信心がある人は他人に信心を取らせられるはずですよね?)
もし、誰にも取らせてないんだったら、自己満足ですよ。大乗正定聚とはいえないです。勝手に自分で喜んでるだけ。
おそらく、親鸞会で長年やってきた。その経験を無駄にしたくない、否定できない、だから、自分が選んだ浄土真宗という教えから抜けられないのでしょう。僕は信心というものはもう、妙好人の時代で終わったと思います。今、存在しているのは浄土真宗・教学のみだと思います。だから、多くの人が真宗から離れ。
華光会も後、何年もつでしょうね。
ここを借りていわせて頂くが、
因果の道理のことで私を責めた人たちへ
「明日はわが身ですよ?」
順縁が壊れていない普通の生活をしている人に無常が分かるものですか。そんな生活をしていて、何が後生が苦になるのですか? 馬鹿にしないでください。