昨日の日経新聞朝刊1面の「春秋」というコラムの欄より。
教育社会学を学んだ方なら知らないともぐりともいえる竹内洋先生が書かれた随筆を引用した記事があった。大学の授業中の私語について、昔の大学ではほとんどなかった理由を探っておられるのだが、「進学者が少数のエリートだった」「勤勉や忍耐が美徳だった」という理由以外に言及されている。
竹内先生は、大正時代の「東京帝国大学法学部教授授業怠業時間一覧」という資料を発見され、当時の学生が集めたデータを分析される。当時の高名な教授9名について、「休講」「遅刻」「早引け」の本来の授業時間から差し引きし、結果を見ると、実質的に高名な教授が授業をした時間は規定の「40%~60%前後」となったのである!
最も少ない教授は37%しか授業をしない・・・そして、「この怠業率の高さが私語なし授業のしかけだったのでは」と竹内先生はユーモアを込めつつまじめに主張されている!(笑)
機会が少なく、しかも短いとなれば、聴く側も真剣になる。「休講はよくない」とされ始めてから私語も増えたと竹内先生は振り返っておられる。近年は、学生の要望から出欠を重視し、「公平に」成績をつける流れも広がっているそうだ・・・
なんだろう・・・この違和感は?出欠重視っていうのは、正直、学生の学びの実績を無視した「事なかれ主義」とはいえないだろうか?
今、私は出席なしの大学院で学んでいる。先生の評価の対象は「レポート」しかない。まあ、大学と大学院は違いますから・・・と言ってしまえばそれまでだが、通信制大学だとしても、評価の対象は「レポート」や「テスト」が大きなウエイトを占めているのだから、通学生の「公平」に対し、通信生の「不公平」は顕著といえよう。
しかし、その「不公平」であるべき通信生への対応が最も「公平」とは言えないだろうか?どれだけ出席したとしても、寝ていたり、スマホや携帯で遊んでいたなら、知識の修得率はほとんどゼロであろう。たとえ出席していなくても、指定された図書を読み込み、しっかり学べば理解できることもあるし、そもそも、その先生の授業が劇的に面白くなかったり、分かりづらかったとすれば、出席を強要することの方が悪徳と思ってしまう。
原点に返って、我々は何のために大学で学んでいるのだろう?単位のために教室で時間をつぶすためなのか、先生に自分の存在を覚えてもらうためなのか、あるいは、今、自分の足りない知識や学びを教えてもらうためなのか?
私は、どちらかというと、先に述べた3つのどれにも当てはまらない。確かに、素直になって知識を習得したいという気持ちはあるものの、そもそも天邪鬼なので、先生の仰せになられたことを疑ったり、穿った見方をする中で、個人的には成長していると思っている。素直じゃない分、評価は低くなりがちであるが(笑)。
話戻って・・・とはいえ、現代社会においては、休講を増やしてもきっと私語はなくならないだろう。それだけ、学生が授業に価値を見出していないからである。もし、授業に対して、真摯に取り組む気持ちの欠片でもあるなら、学生サイドが「出欠重視で公平に」なんて要望がでるはずがない。当然、「しっかり、授業に集中して学習していますから、テストで習熟度を確認してください」となることだろう。真面目に学習する学生からすれば、授業中、私語や居眠り、ネットサーフィンをしている学生が、出席だけで単位を取得することを首肯することは困難であろう。でも、学生サイドから「出席重視反対~!」って一揆が起こった話は聴いたことないのだから、それを望む学生は皆無と思われる。
まあ、私個人的には、私語を無くしたいなら、講義に出席する学生の数を絞ればいいと思っている。そもそも、大量の学生を退屈な授業に囲うから、私語が生まれるのだから。
教育社会学を学んだ方なら知らないともぐりともいえる竹内洋先生が書かれた随筆を引用した記事があった。大学の授業中の私語について、昔の大学ではほとんどなかった理由を探っておられるのだが、「進学者が少数のエリートだった」「勤勉や忍耐が美徳だった」という理由以外に言及されている。
竹内先生は、大正時代の「東京帝国大学法学部教授授業怠業時間一覧」という資料を発見され、当時の学生が集めたデータを分析される。当時の高名な教授9名について、「休講」「遅刻」「早引け」の本来の授業時間から差し引きし、結果を見ると、実質的に高名な教授が授業をした時間は規定の「40%~60%前後」となったのである!
最も少ない教授は37%しか授業をしない・・・そして、「この怠業率の高さが私語なし授業のしかけだったのでは」と竹内先生はユーモアを込めつつまじめに主張されている!(笑)
機会が少なく、しかも短いとなれば、聴く側も真剣になる。「休講はよくない」とされ始めてから私語も増えたと竹内先生は振り返っておられる。近年は、学生の要望から出欠を重視し、「公平に」成績をつける流れも広がっているそうだ・・・
なんだろう・・・この違和感は?出欠重視っていうのは、正直、学生の学びの実績を無視した「事なかれ主義」とはいえないだろうか?
今、私は出席なしの大学院で学んでいる。先生の評価の対象は「レポート」しかない。まあ、大学と大学院は違いますから・・・と言ってしまえばそれまでだが、通信制大学だとしても、評価の対象は「レポート」や「テスト」が大きなウエイトを占めているのだから、通学生の「公平」に対し、通信生の「不公平」は顕著といえよう。
しかし、その「不公平」であるべき通信生への対応が最も「公平」とは言えないだろうか?どれだけ出席したとしても、寝ていたり、スマホや携帯で遊んでいたなら、知識の修得率はほとんどゼロであろう。たとえ出席していなくても、指定された図書を読み込み、しっかり学べば理解できることもあるし、そもそも、その先生の授業が劇的に面白くなかったり、分かりづらかったとすれば、出席を強要することの方が悪徳と思ってしまう。
原点に返って、我々は何のために大学で学んでいるのだろう?単位のために教室で時間をつぶすためなのか、先生に自分の存在を覚えてもらうためなのか、あるいは、今、自分の足りない知識や学びを教えてもらうためなのか?
私は、どちらかというと、先に述べた3つのどれにも当てはまらない。確かに、素直になって知識を習得したいという気持ちはあるものの、そもそも天邪鬼なので、先生の仰せになられたことを疑ったり、穿った見方をする中で、個人的には成長していると思っている。素直じゃない分、評価は低くなりがちであるが(笑)。
話戻って・・・とはいえ、現代社会においては、休講を増やしてもきっと私語はなくならないだろう。それだけ、学生が授業に価値を見出していないからである。もし、授業に対して、真摯に取り組む気持ちの欠片でもあるなら、学生サイドが「出欠重視で公平に」なんて要望がでるはずがない。当然、「しっかり、授業に集中して学習していますから、テストで習熟度を確認してください」となることだろう。真面目に学習する学生からすれば、授業中、私語や居眠り、ネットサーフィンをしている学生が、出席だけで単位を取得することを首肯することは困難であろう。でも、学生サイドから「出席重視反対~!」って一揆が起こった話は聴いたことないのだから、それを望む学生は皆無と思われる。
まあ、私個人的には、私語を無くしたいなら、講義に出席する学生の数を絞ればいいと思っている。そもそも、大量の学生を退屈な授業に囲うから、私語が生まれるのだから。