その昔、そう、子どものころにはやった?ナゾナゾに「北海道から500台、鹿児島から500台の車が、お互い、南に、北に走った場合、どこで遭遇するでしょう」というものがあった。
賢明な読者の方々なら、簡単なナゾナゾである。間違っても、「大阪」とか「名古屋」とか言ってはならない。
答えは・・・「仙台」である。500台+500台=1000台だからという、取るに足らないナゾナゾ。
なら、タイトルの「いっせんだい」とは「一千台」なのか?いや、違う。漢字で書くと「一闡提」である。最近、中国仏教やら仏教史などでよく出てくる言葉なので、ひそかな「マイブーム」となっている。
『仏性とはなにか『涅槃経』を解き明かす』という本では、「仏教内では悪人の代名詞として使われていて、極悪人という人物である」(p.185)とされている。中国仏教で三階教を学習していたときも、「一闡提」というキーワードがでてきた。あるいは、『大般涅槃経』では、「信心をもたない者」「よい方便をみずからのものにできない者」「精進を持続できない者」「記憶を維持できない者」「注意をもたない者」「智慧をもたない者」「無常の善を持たない者」(前掲書pp.186-187)と言った、まあ、ひどい言われようである。
で、一闡提は救われるかというのが、よく問題として取り上げられる。一闡提は悟りを得ることはできないとされる。要は救われないということである。あらゆる衆生は救われるのではと思っても、一闡提は救われない。しかし、もし、その一闡提が少しでも仏法を信じるこころを起こしたなら・・・そう、その瞬間から、一闡提は一闡提ではなくなるのである。だから、本来救われるはずがない一闡提であったとしても、例えば「重罪を犯す者でも、重罪を消したら、その時、ブッダになることができる」(前掲書p.191)のである。
きっと、この「一闡提」という言葉も、仏教学を学ばなければ、知らずに死を迎えていたかもしれない。本当に、学びは奥が深く、際限を知らぬものといえる。人並みに語ることさえおこがましく、己の知識の浅はかさを嘆くのである。
賢明な読者の方々なら、簡単なナゾナゾである。間違っても、「大阪」とか「名古屋」とか言ってはならない。
答えは・・・「仙台」である。500台+500台=1000台だからという、取るに足らないナゾナゾ。
なら、タイトルの「いっせんだい」とは「一千台」なのか?いや、違う。漢字で書くと「一闡提」である。最近、中国仏教やら仏教史などでよく出てくる言葉なので、ひそかな「マイブーム」となっている。
『仏性とはなにか『涅槃経』を解き明かす』という本では、「仏教内では悪人の代名詞として使われていて、極悪人という人物である」(p.185)とされている。中国仏教で三階教を学習していたときも、「一闡提」というキーワードがでてきた。あるいは、『大般涅槃経』では、「信心をもたない者」「よい方便をみずからのものにできない者」「精進を持続できない者」「記憶を維持できない者」「注意をもたない者」「智慧をもたない者」「無常の善を持たない者」(前掲書pp.186-187)と言った、まあ、ひどい言われようである。
で、一闡提は救われるかというのが、よく問題として取り上げられる。一闡提は悟りを得ることはできないとされる。要は救われないということである。あらゆる衆生は救われるのではと思っても、一闡提は救われない。しかし、もし、その一闡提が少しでも仏法を信じるこころを起こしたなら・・・そう、その瞬間から、一闡提は一闡提ではなくなるのである。だから、本来救われるはずがない一闡提であったとしても、例えば「重罪を犯す者でも、重罪を消したら、その時、ブッダになることができる」(前掲書p.191)のである。
きっと、この「一闡提」という言葉も、仏教学を学ばなければ、知らずに死を迎えていたかもしれない。本当に、学びは奥が深く、際限を知らぬものといえる。人並みに語ることさえおこがましく、己の知識の浅はかさを嘆くのである。