武蔵野大学大学院通信教育部の募集要項である。
「いつでもどこでも、私たちは学び直すことができる。」とされている。そう、それがある意味「リカレント教育」であり、あるいは社会人学生の特権ともいえる。大学院でなくても、大学でも、短大でも、あるいは高校でも、カルチャーセンターでも、あるいは、独学であったとしても、その学び直す姿は美しく、崇拝すべきものであろう。
なんせ、仕事をしながら、あるいは仕事を一旦やめたとしても、「学び直すこと」は非常に苦しいのである。どこの誰であったとしても、今の生活を大きく変更することは、苦渋の決断以外の何ものでもない。「茹で蛙」の話の通り、たとえ、後々水が熱湯となり、茹であがったとしても、そのままの方が楽なのだから。
で、この募集要項のp.1には「仕事をしならがでも、より高度な学習・研究に取り組みたい社会人の想いに、武蔵野大学大学院 通信教育部は応えます。」と書かれている。私のやっていることが「より高度な学習・研究」と言えるかは別にして、確かに、武蔵野は廉価で有益な学修を提供してくれる大学院である。
でも、きっと、他の大学院でもあるように、手を抜こうと思えば、いくらでも手抜きができると思っている。わずか10冊弱しか引用文献を掲載していない私のレポートに対する先生のコメントが「多くの文献を参考に・・・」と書かれているのを見た瞬間、「他の学生は一体何冊の本を見てレポートを作成しているのか・・・」と失望してしまう。ひょっとしたら、まさかとは思うが、配布された資料集だけを参考にレポートを作成しているのではないかと疑ってしまう。
本当、手を抜く学生は、見事というくらい上手に、「省力的な単位取得」を成し遂げる。それは、一種の芸術なのかもしれない。大学でも、授業をサボってアルバイトをしていても単位だけは神業ともいえる要領の良さで取得する学生がいた。
でも、そんな省エネ学習をしてまで、学位って欲しいものなのだろうか?まあ、その昔は、私も「楽して単位や学位が取れればな・・・」と夢見ていた時がなかったとは言わないが、今は、「タダで単位をくれてやろう」と言われても、「そんなやましい単位はいらんわ!」と言い切れるまでに成長した(笑)。
学位も同じ。1つ目の修士を取得した後は、特に無理して修士の学位が欲しいと思わなくなった。だからこそ、明星大学大学院で、修了させてあげようしている指導教官に対して「もう1年やらせてください」と懇願するようなこともできたのだろう。でも、修了させられてしまったのだが。博士も要らないといえば嘘になるが、実力不相応の博士の学位は使えないことが分かってしまったから、苦難の道を経ずして欲しいとは思わない。「何とか細胞」の人も、博士を返還するとかしないとかでもめているし、他人の論文を剽窃して博士を取得した後、その不正がバレタ人の人の人生は悲惨であることが分かっているから。
正直、修士の学位なんて、そんなたいそうなものではない。資金を投下して、努力さえすれば、誰でも、必ず取得できる程度のものである。どこかの通信制大学大学院で、「修士論文A評価で修了したのは凄いんだ」な~んて、ほざいていた輩がいたが、本当に痛ましい・・・私なんか、そんなたいしたことではないことを証明するために、大学院生を9年間続けているようなものである。
逆に、大学や大学院に在籍していなくても、丁寧な看護研究をしている看護士さんや、教育研究に勤しんでいる先生方の方が、よほどすばらしい。その真摯な研究姿勢の方が、たかだか、2年ほどの学びでお情け程度の学位を得ることより、貴重で尊いと思っている。
長々と書いてしまったが、結局、本人がどこまで研究成果を追究するかがポイントである。学位だけを目指しているのなら、それまでであるが、自分の成長を考えるのなら、あくまでもライバルは自分自身。わずか2年の学びを、どこまでで妥協するかが勝負の分かれ目といえる。そして、どこまでも妥協しない、「しぶといヤツ」ほど、大学院ではメキメキと成長するのだから。
「いつでもどこでも、私たちは学び直すことができる。」とされている。そう、それがある意味「リカレント教育」であり、あるいは社会人学生の特権ともいえる。大学院でなくても、大学でも、短大でも、あるいは高校でも、カルチャーセンターでも、あるいは、独学であったとしても、その学び直す姿は美しく、崇拝すべきものであろう。
なんせ、仕事をしながら、あるいは仕事を一旦やめたとしても、「学び直すこと」は非常に苦しいのである。どこの誰であったとしても、今の生活を大きく変更することは、苦渋の決断以外の何ものでもない。「茹で蛙」の話の通り、たとえ、後々水が熱湯となり、茹であがったとしても、そのままの方が楽なのだから。
で、この募集要項のp.1には「仕事をしならがでも、より高度な学習・研究に取り組みたい社会人の想いに、武蔵野大学大学院 通信教育部は応えます。」と書かれている。私のやっていることが「より高度な学習・研究」と言えるかは別にして、確かに、武蔵野は廉価で有益な学修を提供してくれる大学院である。
でも、きっと、他の大学院でもあるように、手を抜こうと思えば、いくらでも手抜きができると思っている。わずか10冊弱しか引用文献を掲載していない私のレポートに対する先生のコメントが「多くの文献を参考に・・・」と書かれているのを見た瞬間、「他の学生は一体何冊の本を見てレポートを作成しているのか・・・」と失望してしまう。ひょっとしたら、まさかとは思うが、配布された資料集だけを参考にレポートを作成しているのではないかと疑ってしまう。
本当、手を抜く学生は、見事というくらい上手に、「省力的な単位取得」を成し遂げる。それは、一種の芸術なのかもしれない。大学でも、授業をサボってアルバイトをしていても単位だけは神業ともいえる要領の良さで取得する学生がいた。
でも、そんな省エネ学習をしてまで、学位って欲しいものなのだろうか?まあ、その昔は、私も「楽して単位や学位が取れればな・・・」と夢見ていた時がなかったとは言わないが、今は、「タダで単位をくれてやろう」と言われても、「そんなやましい単位はいらんわ!」と言い切れるまでに成長した(笑)。
学位も同じ。1つ目の修士を取得した後は、特に無理して修士の学位が欲しいと思わなくなった。だからこそ、明星大学大学院で、修了させてあげようしている指導教官に対して「もう1年やらせてください」と懇願するようなこともできたのだろう。でも、修了させられてしまったのだが。博士も要らないといえば嘘になるが、実力不相応の博士の学位は使えないことが分かってしまったから、苦難の道を経ずして欲しいとは思わない。「何とか細胞」の人も、博士を返還するとかしないとかでもめているし、他人の論文を剽窃して博士を取得した後、その不正がバレタ人の人の人生は悲惨であることが分かっているから。
正直、修士の学位なんて、そんなたいそうなものではない。資金を投下して、努力さえすれば、誰でも、必ず取得できる程度のものである。どこかの通信制大学大学院で、「修士論文A評価で修了したのは凄いんだ」な~んて、ほざいていた輩がいたが、本当に痛ましい・・・私なんか、そんなたいしたことではないことを証明するために、大学院生を9年間続けているようなものである。
逆に、大学や大学院に在籍していなくても、丁寧な看護研究をしている看護士さんや、教育研究に勤しんでいる先生方の方が、よほどすばらしい。その真摯な研究姿勢の方が、たかだか、2年ほどの学びでお情け程度の学位を得ることより、貴重で尊いと思っている。
長々と書いてしまったが、結局、本人がどこまで研究成果を追究するかがポイントである。学位だけを目指しているのなら、それまでであるが、自分の成長を考えるのなら、あくまでもライバルは自分自身。わずか2年の学びを、どこまでで妥協するかが勝負の分かれ目といえる。そして、どこまでも妥協しない、「しぶといヤツ」ほど、大学院ではメキメキと成長するのだから。